そして始まった妊活
受精卵の凍結にかかった費用は約60万円だった。5個の受精した胚を冷凍保存し、1年ごとに保存料として11万円の追加負担が必要だった。裕子は受精卵の冷凍保存は、安心のための保険と考えていた。冷凍保存は必ずしも妊娠につながるものではないということだった。キャリアも大事にして、かつ、子供も授かりたいというのは欲張りな望みかもしれないと考えたが、医療技術の発達で、今は、子供を産むタイミングをコントロールできるようになった。現代に生きる者として、科学技術発展の恩恵を受けることは悪いことではないと夫婦で結論した。
夫婦にとって受精卵を凍結するまでに行ったさまざまな検査や施術は決して楽なことではなかった。また、受精卵の凍結まで2カ月以上の期間を要したのも予想外の負担だった。直樹も検査や精子の採取のために何度かクリニックを訪ねなければならなかったが、「正直、二度と経験したくない」と精神的な疲労がかなり大きかったようだった。夫婦で会話することがつらく思えるような2カ月だったが、将来の子供のためと互いに励まし合って乗り切った。そして、それだけの精神的、経済的な負担を経験したこともあったためだろう、受精卵の凍結が完了した後は二人とも仕事に打ち込んだ。裕子はその後の3年間で新しいチームを任せられるようになり、直樹は管理職研修を受けて課長職に片足を乗せることができた。
連ドラのプロデューサーを目指して順調に経験を積んでいった裕子は、35歳を超えた時にジョブローテーションの一環としてニュース番組の制作を経験することを打診された。3年間くらいの期間で、一時的にドラマの制作とは距離を置くことになるが、不慣れな職務に移ることによって責任が軽減され、仕事の成果に対する日々のプレッシャーは小さくなる。そこで、裕子はこの機会を利用して子供づくりをしようと決意した。既に30代も後半を迎え、出産が可能とされる年齢が残り少なくなっていることも意識した。直樹も喜んで同意してくれたので、その日から、さっそく妊活が始まった。
しかし。夫婦にとって、それから始まった「妊活」が、思わぬ試練になった。自分が望む人生をまっとうするため、キャリアと出産・子育ての両立を狙った夫婦が経験した地獄とは…
●40代夫婦の妊活の行方は…? 後編「積み重なる心と身体への負担… 7年間の不妊治療の末に40代夫婦が導き出した答え」にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
文/風間 浩