女将の早苗が1人で切り盛りする小料理屋「ふじ」は、今日もそれなりに賑わっている。数席しかないカウンター席に腰掛けるのは、かれこれ20年以上も飽きずに通ってくれている常連客、通称ミヤさん。商社勤めを引退してもう数年になるというが、背筋はぴんとしていて、年齢を感じさせない人だ。
「ああ、そう。凛ちゃんももう就職か……そりゃあ、さっちゃんも一段落、だね」
「ええ、本当に。もう、やっと肩の荷が下りたって感じよ」
早苗は小鍋の火加減を確認しつつ、ミヤさんを振り返って微笑んだ。
この春、ついに末娘の凛子が大学を卒業し、独り立ちを果たしたのだ。3人の子どもを女手一つで育て上げるのは、楽ではなかった。改めて口にすると、自分でもよくやってこれたなと思う。
「いやぁ、本当によく頑張ったよ。だって、さっちゃんあんた、ずっと店も1人でやってきてさぁ。なかなか普通できることじゃないよ」
「まあ、私の場合は、1人でやるしかなかったからねぇ」
夫を亡くしたのは、今から17年前。交通事故だった。
もともと夫婦で始めたこの小料理屋は、早苗ひとりの背中にのしかかることになった。幸い、夫の保険金や常連のお客さんたちの温かい支えもあって、経済的にはなんとかやっていけた。
問題は、子育ての方だ。特に長男は、中学高校と荒れた時期が長く続き、学校への呼び出しもしょっちゅうだった。今では立派に自営業で生計を立てているが、当時は本当にどうなることかと思っていた。
「こう言っちゃなんだけど、凛ちゃんは昔からしっかりした子だったよねぇ。店の手伝いもよくやってたしさ……」
「そうねぇ、お兄ちゃんたちの荒れっぷりを近くで見てたからかもしれない」
たしかに凛子は、兄妹の中で唯一手のかからない子どもだった。学校の宿題も、部屋の片付けも自主的に行っていて、早苗があれこれ言う必要がなかった。反抗期らしい反抗期もないまま大人になった印象だ。そのため、地方に配属された凛子が県外で1人暮らしを始めることについても、早苗は特別心配はしていなかった。
「そういや、今度のゴールデンウイークは、子どもたち帰ってくるの?」
ミヤさんに尋ねられて、早苗は軽く首を傾げた。
「さあ、特に何も聞いてないけど……帰って来ないんじゃない? 盆や正月ならともかく、ただの連休でしょう?」
「ははっ、相変わらずさっちゃんは、クールだねぇ。うちの奥さんなんて、もう30超えてる娘のこと、いまだに『あの子、ちゃんと食べてるかな』って毎日心配してるよ」
「ふふ、ミヤさんとこは箱入り娘さんだから」
早苗は愛想よく笑いながら、そっとミヤさんの空いたお猪口に酒を注いだ。