<前編のあらすじ>
絵里子(51歳)は、息子の祐也(23歳)が心配だった。年が明ければ、新卒で入った会社を3カ月で辞めてから半年になる。当初は傷ついていた息子に再就職を勧めるようなことはしなかったが、毎日家でだらけている姿に、絵里子は違和感を感じていた。
夫は海外赴任で家を空けており、相談しても「焦らなくてもいいよ」と楽観的な返事が返ってくるばかりでいら立ちがつのる。
やがて、祐也は頻繁に、コソコソと不自然な外出をするようになった。気になって行き先を尋ねてみても、「散歩」と答えるだけで、何か犯罪に巻き込まれているのではと心を痛める絵里子だった。
●前編:「まさかわが子が犯罪に…?」新卒入社から3ヵ月で退職…家に引きこもる23歳の息子が「夜な夜な家を空ける理由」
意を決してわが子を尾行
夜も更けたころ、家の廊下を静かに進む祐也の気配に、絵里子の胸はざわついた。ここ数日、祐也は絵里子が寝静まったタイミングを見計らって、家を出て行く。
もちろん絵里子が真正面から訊ねても裕也が答えるはずもなく、絵里子は意を決して、祐也の尾行を決行することに決めていた。
玄関のドアが閉まる音を確認すると、絵里子は素早く階下に降りて尾行を開始する。あらかじめパジャマから私服に着替え、コートを着込んでおいたおかげで、スムーズに家を出ることができた。
先を行く祐也の足取りは速く、あっという間に住宅街を抜け、やがて河川敷へと続く細道にさしかかった。足元に広がる砂利が音を立て、祐也が振り返るのではと神経をとがらせたが、息子は無警戒にただまっすぐ闇に向かって歩み続けていた。しばらくして薄暗い街灯に照らされた橋の下に差し掛かったとき、祐也がふと立ち止まり、その場にしゃがみ込んだ。
耳を澄ますと、河川敷に生い茂る草むらの影から、わずかに声が聞こえた。
「……お前、だいぶ元気になったな。よしよし、今ご飯あげるから……」
驚くほど優しい声色に、絵里子の緊張感は自然と薄らいだ。吸い寄せられるように祐也の方へ歩み寄ると、彼の足元には小さな子犬がうずくまっていた。
灰色の体毛が汚れにまみれ、足を痛そうに引きずっている様子から、おそらく捨てられてけがをした野良犬なのだろうと分かる。
祐也は子犬にエサをやりながら、口元に穏やかな笑みを浮かべていた。
「裕也……」
「えっ、お母さん……!?」
背後から絵里子が声をかけると、祐也がこちらを振り返り、驚いたように目を見開いた。
絵里子もまた、思わず声をかけてしまった自分に驚きつつも、祐也の顔を見つめた。
「祐也、ごめんね。気になってついてきたの。お母さんに教えてくれる……? どうしてこんな夜中に、こんな場所で……? それにその犬はどうしたの……?」
祐也は一瞬言葉に詰まったが、意を決したように顔を上げて言った。
「この間、たまたま散歩してたときに捨てられてるコイツを見つけて……けがしてるみたいだったから、放っておくわけにはいかなくて……」
絵里子はただ、震えながら言葉を紡ぐ裕也を見守っていた。裕也がこんなふうに自分のことを話すのは、いつぶりだろうか。
「俺、毎日会社で怒鳴られてばっかだったから……コイツも俺と同じで、人から必要とされてないって思うと……なんか見捨てることができなかったんだ……」
その言葉を聞いたとき、絵里子の胸はギュッと締め付けられるように傷んだ。祐也はこの子犬と自分を重ね合わせていたのだ。
大学を卒業し、大手企業に入社したものの、わずか3カ月で退職した裕也。社会の中で役に立てなかったという無力感が、ずっと祐也をむしばんでいたのだろう。
「祐也、あなた……そんなふうに思っていたのね」
絵里子のつぶやきに、祐也はそっと子犬をなでてやりながら続けて話した。
「……うん。でも、お母さんはぜんそくがあるから……家に連れて帰ることもできないだろうし、だからここで……」
その言葉に絵里子は、胸が張り裂ける思いだった。自分が苦しんでいるときでも、他人を思いやれる優しさを持つ息子を、もっと信じてあげるべきだったのだと気づかされたのだ。
絵里子は、柔らかい表情で子犬と触れ合う息子に向かって言った。
「祐也、その子……家に連れて帰りましょう」
「えっ、でもお母さん、ぜんそくが……」
裕也は心配そうに見上げたが、絵里子は息子を安心させるようにほほ笑んだ。
「大丈夫よ。ちゃんと掃除して、息苦しくなったらそのとき考えればいいじゃない。まずは、その子を安心させてあげることが先よ。こんなところじゃ治るけがだって治らないわよ」
祐也はしばらく驚いた顔をしていたが、やがて小さく笑い、そっと子犬を抱え直した。それから2人で子犬を連れて家に戻り、患部を避けるようにお風呂場で洗い流すと、汚れた体毛の下からは美しい灰色の毛並みが現れた。
「お、お前結構かわいい顔してるじゃん……」
タオルで子犬を優しく拭きながらうれしそうに声をかける裕也。
その様子を見守りながら絵里子は、目の前の小さな命が息子の心を救ってくれているのだと確信した。