色ボケ親父

父親は、明らかに今までと違っていた。

常にソワソワと落ち着かない様子で、タンスを開けたり物を引っ張り出したり、「どこかへ連れて行って欲しい」と言って昼夜問わずドライブに行かされたりした。食欲が止まらなくなり、洗面器で袋入りラーメンを大量に作って食べたり、多量の砂糖をカップに入れて水で溶いて飲んだり、ストックしてあった缶詰を全て食べ尽くしてしまったり、近所の庭のトマトを勝手に取って食べたりした。

性的欲求も強く現れていた。

診断後1年目は、アダルトDVDや雑誌のグラビアページをデジカメで撮って何度も見返したり、外出時にミニスカートの女性を凝視したり、雑誌のアンケートはがきに卑猥な言葉を書いて送ったりしていた。

あらゆる欲求の制御ができなくなっていたようだ。

2014年12月。80歳になった父親に口腔がんが見つかり、翌年から放射線と抗がん剤治療を始めることに。

「足の皮膚を移植するため、形成外科医も執刀したのですが、父はその医師に向かって、『先生は失敗しないんですよね?』とドクターXみたいなことを言って周囲を笑わせていたようです。父は見た目を“若作り”するだけではなく、トレンドワードをメモして『ネタ帳』を作り、若い看護師さんとおしゃべりするのが好きでした」

認知症発症から2年ほど経っていたこの頃、父親の認知機能が良くなってきていた。

「もしかすると膝の手術のときの麻酔と、その時飲んでいた薬が合わさって悪さをしたのかも。薬の影響が薄れて普通に戻って来たのではないかと私は思っています」

母娘問題

下島さんは2014年に48歳で再婚。両親の介護が始まったときに、「一緒に住んで助けて欲しい」と言って同棲したことがきっかけとなった。

「介護生活が長くなると、失禁したら下着やシーツを取り替える、シャワー浴をさせる、通院が増える、食事を柔らかくして刻むなど、いろんな作業が積み重なり、負担が大きくなります。すると、『どうして私がここまでしなきゃいけないの? 母親らしいことをしてもらえなかったのに』という思いが湧き上がって来るようになりました」

下島さんには、どうしても忘れられないエピソードがあった。

中学の体育の授業でバスケットボールをした時、同級生と衝突するという事故が起きた。幸い下島さんは軽傷だったが、相手は足を骨折してしまった。

帰宅後下島さんは母親に事情を話し、「一緒に謝りに行ってほしい」と頼む。すると母親は、「なんで私がそんなことしないといけないの⁉」とすごい剣幕で怒られたのだ。

「確かにスポーツ中の事故で、どちらが悪いというわけではありません。でも、『この人は普通じゃないんだ』と感じました」

下島さんは自分のお小遣いでアイスクリームを買い、一人で謝りに行った。

「これがきっかけで母との距離が広がった気がします。不衛生や肥満にならないような生活、挨拶や人との接し方など、ある程度の年齢になるまで子どもに躾けるのが親の仕事だと思うんです。それがないと『変な子』という目で見られてしまいます。よく、『成人後のことは自己責任』と言われますが、私は違うと思うんです。沼地に家を建てても良い家にはなりません。カビが生えたり傾いたり、少しの揺れでも倒壊するんです。少なくとも人生の基礎となる小学生までの親子関係は一生を左右すると思います」

両親を介護するようになった下島さんは、医療・介護関係者に頭を下げることが多くなった。

「母なりに頑張っていたとは思います。でも頭では分かっていても、ふと中学のときのことを思い出し『この人は私のために謝ってくれなかったのに』と思ってしまうのです」

初めは夫に愚痴るだけだったが、次第に下島さんは、疲れているときや余裕がないとき、激怒して親たちを叱りつけるようになっていく。

そんなとき夫は、「認知症の人に言っても仕方ないんだから。俺が全部聞くから」となだめてくれた。