仕事を理由に家族をないがしろにしてきた
家に帰り、風呂で汗を流したが、いまいち食欲はなかったので棚から日本酒を引っ張り出す。定年退職の祝いにと用意しておいたものだった。
「満子、今日でお勤めが終わったよ。お前にはいろいろと迷惑をかけたな」
大吾は妻の満子に話しかける。満子は口数も少なく、半歩後ろを静かについてくるような、自分にはできすぎた女房だった。
「こんな仕事人間と一緒にいて、大変だったろう」
自嘲的に笑い、日本酒を呷(あお)る。アルコールの熱が喉を通っていくが、心にあるしこりは流れない。
仕事だけがうまくいった。満子と結婚し、健と由紀子、2人の子供に恵まれると、一家の大黒柱としての責任が、仕事へ向かう姿勢をより強固なものにした。2人の子供と遊んでやったり、家族を旅行に連れていったことすらない。それなのに、気まぐれに父親面をし、厳しく接した。嫌われて当然だった。
そうやって2人の子供たちにはっきりと嫌われるようになってからは、大吾はより一層仕事へと傾注した。本当にただ仕事だけをし続けた。
だがそのせいで家族は壊れた。健も由紀子も実家には寄り付かず、もう何年も会えていない。仕事を理由に家族をないがしろにし続けた、当然の報いだった。
長い間、大吾は取りつかれたように仕事をしているときがあった。
「満子、何かやりたいことはないか? 退職金も入ったし、どこか旅行にでも行こうか」
大吾はそう提案をしてみる。満子はほほ笑んでいる。
「箱根でも行こうか。温泉でのんびりしよう。お前は寺とか好きだっただろう」
今日まで普通に働いていたとはいえ、2人とも還暦を越えた老体だから遠出は骨が折れる。箱根くらいがちょうどいいと思った。それに箱根には温泉もあるし、箱根神社はパワースポットとしても有名だった。
大吾はネットで調べ、ゴールデンウィーク前の4月半ばの平日に宿を予約した。
平日に旅行の予定を立てるなんてことも定年退職したからこそできることだと思うと、無職も悪くないのかもなと思った。