気まぐれな来訪者
夫の仏壇に線香をあげ、煎茶を入れて窓際に腰かける。日が沈むまで、みわはただ時間だけを消費する。みわの今日は昨日と一昨日と同じで、明日とあさってとも同じだ。よく残りわずかな人生を大切にというけれど、みわの過ごす時間は何もなくただ長い。静かに引き延ばされた時間は、苦痛と孤独以外の意味を持たなかった。
そんな毎日がこれから死ぬまでずっと続いていくんだと思っていた。
けれどこの日は少しだけ違った。
にゃぁお、とかすかに聞こえた声のほうを見ると、もう枯れてしまったヘチマのつるの先で1匹の黒猫が大きなあくびをしていた。
野良猫だろうか。首輪はつけておらず、痩せていて、毛並みはぼさぼさだった。孤独にやつれた様子が、自分と少し重なった。
「おいで」
みわは黒猫に声を掛けた。けれど黒猫はちらりとみわを見ると立ち上がり、かぎ爪のようなしっぽをゆらゆらと振りながら歩いていってしまった。
けれど次の日も、その次の日も、黒猫は庭へやってきて、時間をつぶすみわに気まぐれに付き合った。けれど毎日人の家の庭に入ってくるくせに警戒心が強いのか、黒猫は一向にみわに近づいてはこなかった。鳴き声をまねしても、庭に生えていたねこじゃらしをつまんでみても、手をたたいても振っても、黒猫はなびいてくれなかった。
だからみわは一念発起して近所のスーパーへ足を延ばし、猫用の缶詰を買いに行った。
食事は裏切らない。普段は朴訥(ぼくとつ)としていた夫も、食事の時間だけは朗らかに笑う人だった。
いつもより少し遅くなった時間に窓際に腰かける。いつもと同じ場所で黒猫が横になっている。違うのは久しぶりの外出でからだの末端にたまった気だるさと疲労感と達成感があること、そしてみわの手に缶詰が握られていることだ。
みわは缶詰を開けて地面に置いた。みゃぁお、と猫の鳴きまねをした。すると黒猫は顔を上げ、缶詰をじっと見た。重い腰を上げた黒猫はみわに近づき、足元に置いてある缶詰の中身を食べ始める。
「なんだい、お前おなかがすいてたんだねぇ。なかなか気づかなくてごめんねぇ」
みわは夢中で食事をしている黒猫にゆっくりと手を伸ばして首のあたりをそっとなでる。思った通り毛はごわついていたけれど、温かかった。それはみわが久しぶりに触れる他者のぬくもりだった。黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。みわも思わず笑みをこぼす。
缶詰を食べ終えると、黒猫は立ち上がった。みわのもとを去る足取りは記憶にあるよりもずっと軽快で、隣の家との境界にあるブロック塀へと軽やかに上ってみせた。
「明日も来ておくれよ。重かったけど、いっぱい買ってきたんだからね」
黒猫はしっぽを振って、塀の向こうへ飛び降りた。