情報は「処理」ではなく「読解」することで知識となる
日本人が、日本語で書かれた、日本の本や文章を読む。特にことわりがなければ、多くの人はスラスラと読むことができるだろう。目に入ってくる「情報」は紙上の活字であれ、デジタルに映し出されているものであれ、次々と当たり前のように処理されていく。
ネット空間にあふれる大量の情報に加え、ツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどのソーシャルメディアで触れる文字量を考えれば、デジタル時代は情報過多といえるほどの処理量と向き合っている。
しかし、それらの文章の一つひとつが「読解」されているのかといえば疑問符がつく。ここで言う「読解」とは、単に文章を読んで理解するだけにとどまらず、その背景や周りのものとの関係も含めた概念だ。
例えば、ソーシャルメディアのタイムライン上には大量の文字が並び、写真や動画も見ることができる。ただ、それらをすべて見ているのはよほど時間的な余裕がある人だろう。多くの場合、興味や関心がある人や物事以外は飛ばしているのではないか。
ネット上にあふれるニュースやブログなどにおいても、関心が高いものは「関連記事」を含めて読み込んでいるかもしれないが、それらは情報を「処理」しているのであって、「読解」にまではいたっていないように映る。
つまり、デジタル時代は大量の情報に触れてはいるものの、「読解」まではしていない。より深く言うならば、「情報」が「知識」になっていないのだ。