お金はあるのに使わない父
玄関の引き戸が開いた途端、むっとする熱気が雅美の顔を包んだ。
外よりいくらかましだと思っていたが、家の中には昼間の暑さがそのまま閉じ込められている。廊下の窓は少し開いていたものの、風はほとんど通っていなかった。
「エアコンつけるよ?」
「必要ない」
「そんなわけないでしょう。まさかいつもエアコン使ってないの? この暑さで?」
「うるさい。俺の勝手だ」
雅美は返事をせず、居間のリモコンを手に取った。道夫が止めようとしたが、そのまま運転ボタンを押す。
部屋を見渡すと、棚や畳の隅には薄くほこりが積もり、古新聞と郵便物が壁際に重ねられていた。テレビの横にはガムテープで補修された扇風機がぽつんと置かれている。
「座ってて。熱中症かもしれないわ。今、何か飲むものを持ってくるから」
「大げさだ」
「さっき、まともに歩けていなかったでしょうに」
道夫を座らせ、雅美は台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、食べかけの漬物と古い調味料、半分ほど残ったペットボトルしか見当たらない。野菜室は空だった。戸棚には米と乾麺、安い缶詰が数個並んでいるだけで、肉も魚も卵もない。
「普段、何を食べているの?」
「米と漬物があれば十分だ」
「十分なわけないでしょう。いつからこんな食事をしているの」
「いちいち覚えてない」
雅美は振り返り、痩せた父の顔を見た。この変わりようは年齢だけが理由ではない。生活の質そのものに問題があるのだ。
「もしかして、お金に困っているの?」
道夫は答えなかった。
いぶかしみながら部屋を観察しているうちに、雅美は公共料金の領収書や年金関係の通知を発見した。一応、月ごとに整理されており、支払いが滞っている様子はない。
「払うものは払っているのね」
「金がないわけじゃない」
「だったら、どうして使わないの」
道夫は顔をそむけた。
「ただの倹約だ。俺の金をどうしようが、お前には関係ないだろ」
「あのね、これは倹約じゃない。ただ自分を弱らせているだけよ」
「もういい。用が済んだら帰れ」
道夫は話を打ち切るように立ち上がった。だが、すぐに身体が傾いた。雅美が腕をつかむと、道夫は振り払おうとしたが、力が入っていない。
「離せ」
「この状態で、まだ平気だって言うつもり?」
雅美は道夫を座らせ、その顔を正面から見た。
「何のために、こんな生活をしているのよ」
道夫はしばらく黙り込み、やがてかすれた声で言った。
「……お前たちに遺すものを、減らさないためだ」
動き始めたエアコンの低い音だけが、熱の残る部屋に響いていた。
●息子・直樹の医学部進学資金に頭を悩ませる雅美。母の13回忌で再会した疎遠な父・道夫は、猛暑の中でも食費や電気代を切り詰め、倒れそうなほど弱っていた。その理由を問い詰めると、道夫は思いがけない目的を口にする…… 後編【「お母さんが苦労した時間は戻らない」老いた父が選んだ“身を削る償い”と財産をめぐる娘の決断】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
