篠田政孝は62歳。埼玉県の南部、都内寄りのA市で、米問屋を営んでいる。

生まれも育ちもA市の篠田政孝は、取引先もほとんどが地元で、この地域に広く人脈を持っている。

人と関わるのが好きで、面倒見がいいタイプなこともあり、昔から、町内会のまとめ役や、社会貢献活動のリーダーといった役割を担うことが多かった。

中でも、地元の盆踊りの実行委員長は、篠田政孝が長年取り組んできた仕事だった。

政孝は商売柄、伝統や文化を大事にするほうだった。盆踊りの実行委員長は、その思いを形にする仕事だと、半ばライフワークのように感じていたのだった。

一方、A市が発展するにつれ、新たに流入してきた住民が増え、伝統行事の運営が困難になりつつあった。

また、若い世代も増えてきたことで、篠田の世代の考え方は古いと感じ、反発する向きも増えていた。

特にここ数年は、盆踊りの運営においても、そうした住民からのクレームなどでトラブルが増えており、政孝は実行委員長として心労がつのっていた。

政孝の妻・こずえ(54歳)は、陰ながら心配しており、盆踊りの実行委員長はそろそろ引退してほしいと思っていた……。

「ちょっと面倒なクレーマーがいてさ……」

篠田政孝が実行委員長を務める、A市郊外の盆踊りは、毎年8月10日ごろに2日間かけて開催されるのが常だった。

今年も盆踊りの日がやってきた。初日の夜10時ごろ、一通りの役目を終えた篠田政孝は、疲れ切った表情で帰宅したのだった。

「どうかしたの?」

様子を見て心配した妻・こずえに、政孝はため息をつきながら説明した。

「どうにもこうにも。うまくいかないことが多くて、ちょっと疲れちゃってさ……」

そう言って政孝は額の汗をタオルで拭うと、こずえが差し出した冷たい麦茶を一息に飲み干し、はあ~と大きなため息をついた。

「しんどそうね。盆踊りの日は夜遅くまで雑務に追われるから仕方ないけど、もういい加減年なんだから、そろそろ引退してもいいんじゃないの?」

こずえが本心から言うと、政孝は激しく首を振った。

「いや、違う違う、そんなんじゃない。確かに疲れたっちゃ疲れたんだけど、年のせいとかそういうことじゃないから」

「じゃあ、何があったの?」

こずえが口をとがらせて言うと、政孝は下を向いて言いにくそうにつぶやいた。

「いやあ、ちょっと面倒なクレーマーがいてさ……」