(2)インフレギャップ
高圧経済では、需要が供給を上回る「需要超過」の状態を維持・強化し、いわゆるインフレギャップを生み出します。インフレギャップとは、分かりやすくいえば、実際のGDPが潜在GDPを上回っている状況を指します。
ここでいう潜在GDPとは、労働や資本がフルに活用されたときに達成される生産水準を意味します。この環境下では、働き手が十分に就業できるようになり、賃金が上昇しやすくなります。また、より高い生産性を持つ業種・企業への転職が進みやすくなるほか、企業が従業員を単なるコストではなく人的資本として捉え直すことで、賃金以外の処遇改善も進む傾向があります。こうした動きは従業員との信頼関係、いわゆるエンゲージメントを高め、労働生産性や企業業績の向上へとつながる好循環をもたらすと考えられています。
また、潜在GDPの上昇には、資本面での拡充も重要です。フル稼働環境では、工場などの機械・設備の能力増強投資が活発化し、資本蓄積が進みます。新しい技術を備えた機械の導入やインフラ整備が行われることで、資本の生産性も向上しやすくなります。
同時に、人手不足への対応として省力化投資が進むことで、労働から資本への代替が促されます。さらに、研究開発投資の拡大による技術革新・イノベーションが促進され、その結果として全要素生産性(TFP)の向上にもつながりやすくなります。この全要素生産性については後ほど詳しく述べます。
一方で、「過熱気味の経済状況」や「インフレギャップ」が続くことで、高圧経済はインフレを助長するのではないかとの懸念もあります。しかし、高圧経済はインフレを放置するわけではありません。一定程度のインフレは許容しつつも、先述の全要素生産性の向上によって供給能力を引き上げることで、〔図表10における①から②への移行のように需給ギャップが縮小し、結果的に物価を抑制する効果も期待できます。
[図表10]インフレ抑制効果(需給ギャップの縮小)
(3)履歴効果について
また、高圧経済では「履歴効果(ヒステリシス)」の存在が重視されます。履歴効果とは、景気や相場といった経済状況が大きく変動した後、状況が改善しても元の水準には十分戻らず、長期的な停滞が残ってしまう現象を指します。特に不況によって経済活動が損なわれ、その影響が将来まで尾を引く場合は、「負の履歴効果」と呼ばれます。
この観点から、高圧経済の立場は、シュンペーターが主張した「イノベーションは不況期の創造的破壊によって推進される」という考え方とは一致しません。
というのも、経済危機が発生すると総需要が大きく低下し、その過程で〔図表11〕の経路1、2、3等を通じて総需要が一段と押し下げられます。その結果、この履歴効果によって潜在成長率が元の水準に回復することが阻害されてしまうためです。
[図表11]履歴効果により総需要を抑制する3つの経路
履歴効果の実例として〔図表12〕、まず日本では、日銀による大幅な金融引き締めを契機とした平成バブル崩壊と、その後長く続いた後遺症により、いわゆる「失われた20年」から容易に脱却できなかったことが挙げられます。これは、景気後退が経済の基礎体力を長期にわたり損なう典型例といえます。
さらに、これは日本に限られた現象ではありません。リーマンショック後の各国の状況を見ても、金融・経済危機は単に経済水準を押し下げるだけでなく、成長トレンドそのものを下方に屈折させてしまうことが観測されています。すなわち、危機が経済の軌道を長期的に押し下げる「負の履歴効果」が国際的にも確認されています。
危機を伴う不況は、資産価格の低迷を招き、投資家のリスク回避姿勢を強め、リスクマネーの供給を縮小させます。その結果、本来であれば新たな価値創造を担うはずの起業家の減少を引き起こし、イノベーションが阻害されます。こうした理由から、高圧経済の視点では、先ほど触れたとおり、「創造的破壊によってイノベーションが促進される」という考え方に対して懐疑的な立場を取っています。
[図表12]履歴効果の実例
そこでイエレンは、リーマンショック以降台頭していた経済の長期停滞論に対し、景気後退後に生じる「負の履歴効果」とは逆に、需要が供給を上回る経済状態を持続させることで、供給能力を高めることができると主張しました。
具体的には、需要超過の経済環境が続くことで、将来の不確実性が低下し、設備投資が拡大するほか、生産性の高い業種・企業への労働移動の促進、さらに研究開発の活発化によって新たな革新的ビジネスが生まれやすくなるといった経路を通じて、供給力の向上につながると考えました。
なお、イエレンは、高圧経済にはメリットと同じくらい重要なリスクも存在すると述べています。こうした政策が実際に潜在成長率の引き上げにつながるのか不確実であること、また資産バブルの発生や予想以上のインフレ加速といった懸念をリスク要因として挙げています。



