大家の来訪

大家の橘は約束の時間ぴったりにやってきた。

落ち着いた雰囲気の中年女性だ。無地のシャツに紺のカーディガン。肩には小ぶりなカバン。飾り気のない服装の中に、芯のある印象があった。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

ドアの前で待機していた海斗は深々と頭を下げてから、大家を部屋の中に招き入れた。

「お邪魔しますね」

「はい、どうぞ」

照明は、いつもより少しだけ明るめに設定していた。

「こちらです……元の壁紙は剥がして、塗装してしまっています……本来ならちゃんと確認すべきでした。すみません」

大家は海斗の説明を遮ることなく、部屋の隅々をゆっくりと見て回った。無言で、時折、壁を軽く叩いたり、棚の固定具を確認したり。口数は少ないが、確かに「見る」ことに集中しているのが伝わってきた。

内心、海斗の心拍は上がり続けていた。

だめかもしれない。

やっぱり怒られる。

そう思うたび、説明の言葉が喉に詰まりそうになる。

ひととおり見終えたところで、大家がようやく口を開いた。

「……ずいぶん、丁寧に作ったのね」

「え?」

思わず聞き返してしまった。大家は少しだけ口元を緩めた。

「こういうことを無断でする人だから、もっと雑だと思っていたわ。退去時のことなんて考えずに、壁を壊したり、床を釘で打ちつけたり。でも、これは……確かに工夫してる。最初の状態よりも、今のほうがずっと明るくて、気持ちがいいわ」

意外な感想を受け止めきれず、海斗は呆然と立ち尽くした。肩の力が一気に抜けていく。思わず深く頭を下げる。

「あの、ほんとにすみませんでした。契約書にも書いてあったのに、勝手に進めてしまって……」

「今回は、特別にこのままで構わないことにしましょう。ただし、契約の内容が変わるわけじゃないから、次に何か手を加えるときは、必ず事前に連絡してね」

その言葉を聞いた瞬間、ようやく胸の奥から息が抜けた。安心と、情けなさと、でもどこかで報われたような感覚が入り混じる。

「……はい。もう絶対に勝手なことはしません。この度は寛大なご対応、ありがとうございます」

大家はもう一度、部屋を見渡してから玄関へ向かう。

「こんなふうに生まれ変わらせてもらえるなら、少しはこの建物も長生きできそうね」

ぽつりとそんな言葉を残し、彼女は静かに帰っていった。

ドアが閉まったあと、海斗は深く息を吐いた。

自分は無知で浅慮で未熟だ。

だが、不思議と悪い気分ではない。

海斗は部屋の真ん中に立って、見慣れた風景を見渡す。窓から射す光が、白い壁を明るく照らしていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。