母の遺影の前で感じた複雑な思い

久々の地元の空気は、東京よりも湿っている。駅を出た瞬間、あの頃と何も変わらない風景が視界に広がった。

古い看板、ひび割れたまま補修の行き届かない歩道、どこか靄のかかった空。それらが、詩織の中に沈殿していた過去を静かに呼び起こす。タクシーの窓から見える街並みには、新しい店もいくつかあったが、地元の人間しか使わない道や、遠くに見える山の稜線は、まるで時間が止まったようだった。

「ご乗車ありがとうございました」

実家の前に着くと、直樹が玄関先で待っていた。相変わらずの無愛想な顔つきだが、髪には白いものがちらほら混じり、どこか疲れて見えた。

「遠いとこ、悪いね」

短く言うと、彼は詩織のキャリーバッグを儀礼的に受け取った。その手つきはぎこちなく、どこかよそよそしい。お互い、大人になってからの関わりは最低限で、会話らしい会話を交わした記憶がほとんどない。

「ありがとう」

家の中には香の匂いが漂い、台所の奥から誰かが食器を並べる音がした。

直樹の妻だろう。詩織は客人のように居間へと通された。祭壇の前に立つと、母の遺影が目に入った。少し昔の写真だろう。控えめな笑顔、薄い化粧、優しいけれど自分の感情をしまい込んだような表情。詩織は思わず目を伏せる。

「母さん、施設に入れてからはだいぶ落ち着いてたんだけどな。先々月くらいから調子崩すようになって……最後はあっけないもんだったよ」

誰にともなく直樹がぽつりとつぶやいた。詩織は黙ったまま頷く。理不尽な父から庇ってくれなかった母に対して、もちろん恨みがないわけではない。

ただ、彼女もまた男系の家制度に搾取されてきた1人だ。

母の人生とは、一体何だったのか。