午後の会議を終えたばかりのオフィスで、詩織はスマートフォンの着信に気づいた。ディスプレイに表示された名前を見て、思わず眉をひそめる。弟の直樹からの電話だった。
「……姉さん、久しぶり。今、大丈夫か?」
スピーカー越しの声は、やや硬く、ぎこちなかった。ただ事ではないと察した詩織は無言のまま立ち上がり、窓際のパーティションの陰に移動する。
「ええ、大丈夫……どうかした?」
「母さんが、さっき亡くなった。今朝、施設で倒れて、そのまま……」
最後は濁された。
詩織は一瞬だけ息を止め、とっさに何か言わなければと口を開きかけたが、声は出なかった。
涙は出ない。ただ、喉の奥がじわりと熱を帯びる。
「通夜はあさって、葬儀はその翌日だけど……来られそうか?」
詩織は視線を逸らし、窓の外に目を向けた。東京の高層ビルが並ぶ景色は、いつもと変わらない。だが、心の奥底に、わずかな揺らぎが広がっていく。
「……わかった。行く」
その一言に、直樹は安堵の息を漏らしたようだった。
電話を切ると、詩織はデスクに戻り、手帳を開いた。今週はクライアントとの打ち合わせが2件、部内の進捗報告と、新規プロジェクトの準備もある。だが、調整できないほどではない。むしろ、スケジュール調整に追われた方が、今の動揺を紛らわせる気がした。
イスに腰掛けながら、ふと考える。最後に母と話したのは、いつだったか。思い出せない。それどころか、母の声すらぼんやりしていた。
「お母さんが、ねえ……。もうそんな歳か」
