久々の帰郷を決意した詩織

幼少期、家は男が継ぐものだと繰り返し言われてきた。製造業を営む父の言葉はいつも絶対で、母は黙ってそれに従うだけだった。弟の直樹は、小さい頃から「跡取り」として育てられ、詩織は「いずれ他所へ嫁に行く存在」として端に追いやられてきた。

そんな前時代的価値観で凝り固まった生家を出たのが、18歳のとき。絶縁覚悟で東京へ向かった。こっそり貯めていたバイト代で部屋を借り、奨学金で大学を卒業した。

家を飛び出してから今日まで、ただの一度も帰省していない。父の葬式すらも顔を出さなかった。弟の結婚祝いと出産祝いには、それぞれ祝儀を送ったが、社交辞令以上のことはできなかったし、する気もなかった。

自分の人生は、家とは無関係に築くものだと、そう思ってきたから。

だが今——母が亡くなったという事実は、胸のどこかを鈍く打ち続けていた。

「ただいま……」

夜、部屋に戻ってから、詩織は小さなキャリーバッグを引っ張り出した。

喪服を畳み、黒いパンプスを入れ、化粧品と必要最低限の衣類も詰める。

通夜と葬儀、1泊2日分もあれば十分だろう。

東京から新幹線で3時間。

さらに駅から車を1時間走らせないと辿り着けない土地。

乗換案内アプリを検索しているうちに、陰鬱とした少女時代を思い出し、胃のあたりがきゅっと縮まった。

「ああ、情けない……」

母の葬儀に行くだけ。それ以上でも以下でもない。母の死を悼む気持ちが、自分の中にどれほどあるのか、正直わからない。それでも、今回は行かねばならない気がした。

詩織は、スマートフォンの画面を伏せて置き、ベッドの縁に腰を下ろした。部屋の静けさが、まるで心の底をなぞるように感じられた。