離婚届を送られて慌てる夫
「……ちょっと待ってくれ。おまえ、本気なのか?」
「本気じゃなきゃ、こんなことしないよ」
「……怒らせるつもりはなかったんだよ、俺は。ただ立場上、断れなかっただけで悪気は……」
動揺した声が、スマホの向こうから漏れた。今さら何を言われても、もう感情は揺さぶられはしなかった。なぜなら、すでに心は、とうに彼から離れていたからだ。
「悪気がなければ何をしても許されるの? 私たちの生活のこと、子どもたちのこと、あなた一度でもちゃんと向き合ってくれた? 自分を改めようとした?」
里佳子の問いかけに悟は答えなかった。沈黙の向こう側にいるその人は、もう「家族」ではなかった。
◇
離婚が成立したのは、冷たい雨が降る日だった。
「終わった……」
手続きを終えたとき、里佳子は全身が弛緩するのを感じた。
悟との話し合いは、最終的には弁護士を介して淡々と進んだ。財産分与には渋ったが、通帳の履歴を突きつけると、さすがに黙った。養育費も、こちらの提示額にしぶしぶ応じた。
最後に「今まで悪かった」と短い謝罪メッセージが届いたが、それに対する返事はしなかった。今はただ、子どもたちとの新生活を優先したい。それだけだった。
自分で稼ぐという決意
春先の朝、里佳子はパートの初出勤に向けて、身支度を整えていた。
母が子どもたちを見てくれるというので、短時間からのスタートだ。
外で仕事をするのは8年ぶり。不安がないわけではない。でも、それ以上に「自分でお金を稼ぐ」という決意が、里佳子の心を奮い立たせていた。
「お母さん、それじゃよろしくね。何かあったらすぐ電話して」
「分かってるって。こっちは心配せずに頑張っておいで」
「うん……」
視線を下げると台所のテーブルに、折り紙とクレヨンが散らかっている。昨夜、「パン屋さんになりたい」と唐突に言い出した弟のために、娘がせっせと紙のパンを作っていた名残だ。
「おかあさん、おしごといってらっしゃい!」
「いってらっしゃーい」
朝食を終えた娘が、背筋をぴんと伸ばして言った。息子も姉の真似をしてひらひらと手を振る。
「いってきます」
子どもたちにそう返したとき、胸の奥からほんの少しだけ、熱いものがこみ上げた。
泣きそうになっていることを悟られぬように笑顔で手を振って玄関を出る。1歩踏み出して見上げた空は、どこまでも青かった。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
