義母が残していた手紙
千佳がこの家に来てから二十数年。嫁という立場は、どこまでいっても「外の人間」だ。法的にも、義母の遺産を受け取る権利はない。夫・修三の死後も黙ってここにとどまり、義母と共に暮らしてきた年月は、千佳以外の人間にとっては何の意味のないものだったのだろうか。
「お義母さんって、遺言とか……何か書き残してなかったかしら? 千佳さん、何か聞いてない?」
「いえ、特には……でも、もし何かあるとしたら……」
千佳は静かに立ち上がり、そこへ向かった。線香の煙の向こう、漆塗りの仏壇の足元。指で触れた引き出しは、意外にもすんなりと開いた。中には封筒が一通、丁寧に置かれていた。
「これ……」
「えっ、遺言書? お母さん、本当に用意してたの?」
「へえー、意外だな」
千佳の手から無遠慮に封筒を受け取った義兄と義姉は、言葉を失っていた。なぜなら、義母の遺言の内容は、「千佳にすべての財産を渡したい」というものだったからだ。
土地も家もすべて千佳に遺贈するという明記があった。封筒の中には、さらにもう1枚、丁寧に折られた便箋があった。千佳は手のひらでその紙を撫でるようにして広げ、「千佳さんへ」から始まる文章を静かに読み始めた。
「千佳さんには、苦労ばっかりかけてきた。若いのに、よくこんな田舎まで来てくれたと思う。子ができんかったことを責めてしまったことは、今でも後悔してる。辛く当たってばかりで本当に申し訳なかった」
……と、たった3行で、もう胸がいっぱいになっていた。
「……修三が千佳さんを選んだ理由が、今はよくわかる。私が年を取ってからも、文句ひとつ言わず世話をしてくれた。振り返ってみると、千佳さんが一番の孝行娘やった」
そこに書かれていたのは、声に出して伝えられなかった言葉たち。義母が見せることのなかった素直な感情。
千佳は便箋をそっと胸に当てた。義兄も義姉も、それを見てはじめて黙り込んだ。しばらくの沈黙ののち、義姉がぽつりと言った。
「……お母さんは、ちゃんと見てたんだね」
それが素直な言葉だったのか、皮肉だったのかはわからない。でも、千佳はそれをありがたく受け取ることにした。
後日、弁護士を交えて正式に遺言を確認した結果、義母の意思が法的にも尊重されることが決まり、家と土地の多くは千佳の手に残されることになった。