――海外現地法人で勤務されていた時期は、ちょうど日本のバブル崩壊と重なっています。

産業界に新たな資金需要が見いだせないだけでなく、バブル崩壊で企業が一斉に過去の借金の返済に回ることになりました。政府が景気刺激策として国民から借入を行ってくれましたが、それでも吸収しきれない国内の金融資産がありました。高度成長期から始まった経常収支の黒字も日本を世界最大の債権国へと押し上げた時代です。

この過剰国内資金と過少国内資金需要の状態を解決する産業こそ、資産運用業、なかでも海外資産に対する運用業だと思っていました。

日本の潤沢な金融資産を資金需要がある海外の国や企業に投資することによって、成長率の高い地域の株式の配当や債券の利息といった収益を得ることができます。そうすることで、戦後、努力をして蓄積してきた国富を次世代に継承できるのではないか。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、私としては、興銀に入ったときと同じような産業金融の考え方の延長線上で、運用業というものを捉えていました。

――一般的に多くの人が持つ投資銀行のイメージは、「リーマンショック」が起きるまでは、レバレッジを駆使して可能な限り大きなリターンを目指す、といったものだったかと思います。それが、リーマンショックによる世界金融危機を経て、アセットマネジメントこそが重要であるという認識に変わり、資産運用ビジネスが世界的に注目されるようになりました。それより約10年早く、アセットマネジメントの重要性に気付いていたことになります。

ニューヨークにいた頃は、モーゲージや米国債のポートフォリオマネジャーとして自己勘定での運用を一生懸命していたので、いま申し上げたように、どこまで大所高所のことを考えていたのかは心もとないですが、当時、日本の産業構造を想定したときに、海外資産で資金を運用せざるを得ないというのはハッキリしていました。国内のキャピタルマーケット(資本市場)を見ると、企業が預金(借入を返済)していたわけですから、投資先が不足しているのは明らかでした。

そして、運用業が重要になることは理解していましたが、海外で大きな資金を運用できる運用会社は日本にはないことも分かっていました。そうしたときに、仕事を通じて知り合った、ブラックロックの創業者であるラリー・フィンクから「うちの会社に来ないか」と直接言われたのです。

――当時のブラックロックはどんな会社でしたか。

社員は350名ほどで拠点はニューヨークだけという、非上場の米国債券専門の運用会社です。社名にアセットマネジメントとかインベストメントも付いていないので、一見、何をやっている会社なのか分からない。

転職を父親に話したときは、運用会社だと言ってもなかなか伝わらず、非上場で、日本に拠点もなく日本人もいない会社だと言うと、「英語は少しはできるようになったのか」と聞かれ、できませんと答えると驚かれましたね(笑)。興銀でやっていたモーゲージ債の運用を引き続きすると言ったら、納得していましたが……。それは当然の反応で、興銀からゴールドマン・サックスとかモルガン・スタンレーに転職する人は多少いましたが、ブラックロックは日本ではまったくの無名だったので周りの方々には随分と心配をかけました。

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悩んだ末に、ブラックロックに転じることに。その後ブラックロックは世界屈指の運用会社として存在感を放ち始める。また同時に、日本でも直接金融の流れが本格化していく。

後編【「市場に厚みがあれば、変化に対応しやすくなる」日本がもう一度強くなるのに必要なことは…】では、いま日本資本市場に何が必要なのか提言いただく(4月17日公開予定)。
 

ブラックロック・ジャパン代表取締役社長CEO 有田浩之氏

 

ありた・ひろゆき/1963年、広島県生まれ。87年に日本興業銀行(現みずほ銀行)入行。91年からスイス興銀、92年、本店国際資金部、96年からはニューヨークに駐在。99年に米ブラックロックへ転職。2001年に帰国し、ブラックロックの日本事業を統括。07年より現職。現在、政府の「資産運用フォーラム」の共同議長を務める。