1000円札の重み

これまでろくに払っていなかった養育費をまとめて払いたいと、妻の良子に連絡したのはその月の半ばのことだった。良子は2日後に振込先と合わせて連絡を返してきたが、丈秀は直接渡したいと譲らなかった。

丈秀が、しぶしぶ折れた良子に指定されたコーヒーチェーン店に着いたのは待ち合わせ時間の30分前だった。本当ならば高級ホテルのバーラウンジなどが再会場所としては好ましいと思っていたが、良子はこのあとパートに出なけばいけないと言っていたので仕方がなかった。

良子は待ち合わせの5分前にやってきた。入店音に反応した丈秀は良子に向けて手を上げる。丈秀を見つけた良子は眉をひそめていたが、丈秀だと気づくやすぐに席へとやってきた。

「久しぶり。なんか、雰囲気変わったわね」

「まあ、いろいろあってな。おいおい話すよ」

丈秀は良子の分のカフェオレと、自分の分の二杯目のコーヒーを注文した。良子はよほど連絡がうれしかったのか、あるいは金に困っているのか、カフェオレが運ばれてくるよりも先に話を切り出した。

「それで、養育費のことだけど」

丈秀はかばんから茶封筒を取り出した。10年分の養育費と延滞料金として上乗せした丈秀の気持ちは全部で700万円におよび、茶封筒をいびつなかたちに膨らめていた。

しかし机の上に差し出された封筒を、良子はすぐに受け取らず、じっと見ていた。

「これ、一体どういうお金? まさかとは思うけど、なんか危ない仕事してるんじゃないでしょうね? そんなお金なら受け取れ――」

「違うよ。当たったんだ、宝くじ」

丈秀は良子の言葉を遮った。良子はますますけげんそうに顔をしかめていた。

「宝くじって、あの宝くじ?」

「そう。2億円」

「は? に、2億⁉」

慌てて潜めた声には驚きと色めき立つような感情がにじんでいるのが感じられた。丈秀はここだ、と思った。

「だから俺たち、やり直さないか? もうお前にも武彦にも苦労はかけない。仕事は辞めたから、家事だってちゃんと手伝うよ」

しかし丈秀が口にした途端、良子の表情から感情が抜け落ちていった。目は鋭く細められ、真っすぐに丈秀を映している。

「それ、本気?」

「当たり前だろ。冗談でこんなこと言わないよ。俺はお前ともう一度やり直したいんだ」

丈秀はテーブルの下でこぶしを握っていた。こんなに緊張するのはプロポーズしたとき以来だった。

やがて良子は短く息を吐き、口元を緩めた。丈秀も内心で一息ついたが、良子の続く言葉は丈秀の想像とは違っていた。

「何考えてんの? はいそうですねって納得するとでも思ってる? バカにしないでよ。あんたと別れて、私と武彦がどれだけ苦労してきたと思ってんのよ。それにね、私、とっくに再婚してるの。あんたとやり直す可能性なんてこれっぽっちもないわ」

「な……」

丈秀は言葉が出なかった。まるで時間が止まったように固まっていたが、天井で回っている大きなプロペラファンは静かにゆっくりと回転を続けていた。

「このお金も、そういうつもりのお金なら結構です。そうやって見栄えだけ強そうに取り繕ってもさ、あなた、結局なんにも変わってないわよ」

良子は財布から1000円札を抜き取ると、机の上に置いて立ち上がった。丈秀は呼び止めることもできず、あっという間に立ち去っていく良子をただ見送った。

間もなく、コーヒーとカフェオレが運ばれてくる。丈秀はぼんやりと座ったまま、机に置かれた1000円札の重みに動くことができなかった。

●唯一の希望に思えた元妻とも決裂してしまった。丈秀は人生に幸せを見いだせるのだろうか。 後編「金だけあっても使い道なくて」宝くじ高額当選も妻子に逃げられ…人生の希望を託した「子供食堂への願い」】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。