鼻をつく不快な臭い

新生活を始めてから3カ月。季節は初夏を迎えて気温が上がるにつれ、郁美はマンションの生活にある違和感を抱くようになった。最初に気づいたのは蒸し暑い日のことだった。窓を開けてリビングに風を通したとき、不快な臭いがぶわっと部屋に入ってきたのだ。

「ん? 何、この臭い……」

郁美は眉をひそめた。それは、何とも言えない、ツンと鼻を刺激するような臭い。ものの数秒嗅いだだけでも口の中に胃酸が込み上げてきそうな不快な臭いだ。強いて言えば動物園、いや公衆トイレの臭いとでもいうのだろうか。

風に乗って漂うその異臭は、何となく隣室から来ているように思えた。隣に住んでいるのは、川西貴理子という1人暮らしの女性だ。正確な年齢は知らないが、郁美は自分よりひと回りは上だろうと見当をつけていた。

引っ越しのあいさつに行ったとき、貴理子は不在だったため、郁美と宗司はドアノブに粗品を引っ掛けて帰ってきた。すると貴理子は、その日の夜、わざわざ初めましてのあいさつと粗品の礼を言いに来てくれたのだ。その一件で郁美は、貴理子のことを律義で真面目な人だと評価していた。

まさか臭いの原因が貴理子だとは思いたくなかったが、やはり気になるものは気になる。郁美は息を殺してベランダに出ると、こっそり仕切りの隙間から隣の様子をうかがった。だが、貴理子の部屋のベランダには、異臭の原因になりそうな物は何も見当たらない。

(やっぱり貴理子さんじゃないのか......)

郁美は、きっとマンションの誰かが偶然ゴミの処理を怠ったのだろうと考えることにした。しかし臭いは日を追うごとに増していった。特に気温が上がる日には、臭いが強まり、窓を開けられないほどになっていた。ついに耐えられなくなった郁美は、宗司に泣きついた。

「どうしよう、宗司。最近、隣から変な臭いがするの。ちょっと我慢できなくなってきた」

家を空ける時間の多い宗司は、それまで気にしていなかったが、郁美に促されてベランダに出ると即座に顔をしかめた。

「うっ……これはひどいね。何かが腐ったみたいな……取りあえず管理会社に報告しておこうか」

宗司の言葉に1度はうなずいた郁美だったが、数日後、エレベーターで偶然貴理子と一緒になったタイミングで、臭いのことを思い出した。

「ねえ最近、なんだか変な臭いがしません? あまりにも臭いがきつくて、暑いのに窓も開けられなくて困ってるんですよ。貴理子さんのところは大丈夫ですか?」

郁美はできるだけ穏やかに探りを入れた。貴理子は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに困ったように首をかしげた。

「え、そんなことが……? 私は、特に何も……気が付きませんでした」

そう言いながらも、貴理子はどこか歯切れが悪かった。結局、それ以上踏み込むこともできず、郁美は少しだけ世間話をしてからその場を去った。