私はあなたの所有物じゃない

数日後、土曜の昼下がり、春菜は家の中を掃除していた。孝輔も珍しく家にいて、リビングで新聞を読みながら、たまにパソコンで仕事のメールをチェックしている。いつも通りの日常。しかし、その静けさを破るように、玄関のチャイムが鳴った。

「……誰だろう?」

春菜は首をかしげながら、玄関へ向かった。来客の予定はなかったし、最近は孝輔の言いつけ通り友人とも距離を置いている。

そっとドアを開けると、そこには父が立っていた。

「ちょっとお前の顔を見に来た」

予想外の訪問に、春菜は動揺した。父はいつも田舎で忙しく働いているため、わざわざ春菜たちの家まで来たことなどなかった。しかも、何の連絡もなく。

部屋に通された父は、孝輔とあいさつを交わす。

「急にすまないな。この間電話で話したとき、春菜の元気がなさそうだったから気になったんだ」

「お義父(とう)さんならいつでも歓迎しますよ。でも春菜は少し風邪気味なだけですから、ご心配なく」

孝輔がにこやかに答え、その横で春菜も小さくうなずいた。その様子にホッとした様子の父は、持っていた紙袋から瓶を取り出した。

「これ、お前たちに持ってきたんだ。野菜で作ったジャムだよ。これなら日持ちするし、かさばらないからいいだろ? 冷蔵庫に入れておくな」

そう言うと、父はジャムの瓶を持って台所へ向かった。

「あっ! お父さん、私がやるから……!」

「いいよ。風邪気味なんだろ? 春菜は座ってなさい」

父は春菜を制して冷蔵庫の扉を開けた。次の瞬間、父がハッと息をのんだのが分かった。それもそのはず、冷蔵庫の中身はスカスカ。実家から届いた新鮮な野菜も一切入っていない。

「春菜、これは一体……」

「お義父(とう)さん、すみません。実は送っていただいた野菜は、先日知人に譲ったんですよ。僕たちただけは食べきれなかったので……」

父が何か言う前に孝輔が先回りした。しかし、父の中に芽生えた疑念は消えなかったようだ。

「それは構わないが……野菜だけじゃなく、肉も魚も見当たらないじゃないか。春菜、お前家で料理していないのか?」

「ここ最近は体調が芳しくなかったので……」

またもや代わりに答えた孝輔に、父がピシャリと言った。

「俺は春菜に聞いてるんだ。春菜、どうなんだ? 答えなさい」

「えっと、これは……」

横目で孝輔の顔色をうかがうだけで言葉が続かない春菜を見て、父は何かを悟ったように大きくうなずいた。そして孝輔をちらっと見ると、春菜の手を握って立ち上がらせた。

「娘には休養が必要みたいだ。実家に連れて帰る」

「え、ちょっとお義父(とう)さん。いくらなんでも急すぎますよ」

少し慌てた様子の孝輔は、反射的に春菜の腕を強くつかんだ。するとその拍子に、バランスを崩した春菜のポケットから小さなメモ帳が落ちた。父はそれを拾い上げると、声に出して読み始めた。

「『だしは一から自分でとること。市販のだしの素は禁止』『品数が足りないと言われた。おかずは最低三品以上が常識』『付き合う友達は大卒以上で専業主婦か正社員』だと……?」

「お義父(とう)さん、それは……」

孝輔は瞬時に弁明しようとしたが、その前に父の怒声が響いた。

「お前は何さまのつもりだ⁉ どんなに立派な経歴を持っていようが、娘を傷つける人間を俺は許さないぞ!」

「いや、あの……」

父の迫力を目の当たりにして、孝輔は普段の自信満々な姿がうそのように口ごもった。反論することもできず、目を泳がせる孝輔。春菜は、その姿を見ておかしくなった。今まで散々自分を支配してきた男が急にひどく矮小(わいしょう)なものに見えたのだ。

「春菜、帰ろう」

「うん、ありがとう。荷物まとめてくる」

「お、おい春菜! 俺はまだ許可してないぞ!」

引き留めようとする孝輔の手を春菜は力いっぱい振り払った。

「ごめんなさい。でも、私が私の実家に帰るのに、どうして許可が必要なのか分からないの。私は孝輔さんの所有物じゃない」

春菜の反論に、今度は孝輔が口を開けたまま固まっていた。