妻をねぎらうためのディナー

実は今日は、普段よりも少しばかり高級なレストランで食事をすることになっているのだ。幸は長年、専業主婦として剛典を支え、2人の子供たちを立派に育ててくれた。そんな妻に対するねぎらいの気持ちを込めて、剛典は彼女をディナーに誘ったのだ。

レストランに到着した剛典たちは、夫婦水入らずで食事を楽しんだ。剛典が奮発したかいあって、幸は店の雰囲気や料理を気に入ってくれたようだった。普段はほとんど飲まないワインまで注文するほど上機嫌で、よくしゃべり、よく笑った。

もちろん剛典は帰りも車の運転があるので、アルコールは飲めない。剛典はソフトドリンクのグラスを持ちながら、根気よく妻のとりとめのない話を聞いた。

「子供たちが出て行っちゃったから、寂しくなったわね」

「あぁ、そうだな」

ほんのりと顔を赤らめながら言う幸に対して、剛典は簡単に返事をした。幸は、あまり酒に強い方ではない。そろそろ水を飲ませた方がいいだろうか。そんなことを考えながら話を聞いていたため、ずいぶん気のない返事になってしまったが、当の幸は酔っているせいか、特に剛典の反応を気にしていないようだった。

「あーあ、子育てが終わるってこんな気分なのね。私はこれから何を目標に生きていけばいいの?」

「今まで頑張ってきたんだし、しばらくはゆっくりしたら? 焦らなくても、そのうち新しい目標が見つかるさ」

剛典は、わざと大げさに嘆くフリをする幸に苦笑いしながら、ウエーターに水を頼んだ。

たしかに子育て期間は終わったのかもしれないが、会社員の剛典が定年を迎えるまでには、まだまだ時間があった。子供たちのいない生活には寂しさを感じるものの、毎日会社に行って仕事をするという剛典の日常は変わらない。だから、剛典にとって子供の独立というライフイベントは、専業主婦の幸が感じるほど重大なものではなかったのだ。

実際、無事に子育てが終わってからも、剛典の仕事漬けの生活は変わらなかった。むしろ新年度ということで新入社員の教育や異動してきた部下の対応に追われ、剛典はいつも以上に慌ただしい日々を送っていた。

幸の話に相づちを打ちながら、剛典は明日から始まる新しい1週間のことを考えていた。