絶望の底から救い出してくれたもの

39歳、社会人経験なし、恋愛経験もあまりなし――そんな自分にみんなのような未来はないんじゃないだろうか。

翔子は仕事帰り、いつものように一人酒をあおり、酩酊(めいてい)しながら夜の街を歩く。今となっては酔っぱらっている時間だけが救いだった。目の前に立ちはだかり、足をつかんで引き倒そうとしてくる現実を忘れることができた。

どこまでも沈んでいけそうだった。このまま息が止まるまで沈んでいってしまえばいいと思った。

ふと、私なんてもうこの世界に必要ないのかもしれないと思った。

別に生きていたって、誰の役に立つわけでもない。〈サボテン〉がなくなった以上、生きてやりたいこともない。

翔子は横目に見ていた線路に吸い寄せられていく。買い直したばかりのパンプスを脱ぎ捨ててフェンスをよじ登る。冷たいフェンスが手のひらや足の裏に食いこんだ。

みゃあお。

か細く震えているような声がした。気を取られた一瞬で足が滑り、翔子はフェンスから転げ落ちた。

みゃあお。

立ち上がり、翔子は聞こえた声の方向に目を凝らす。取り出したスマホのライトをつけてあたりを照らす。目に入った画面にはいつの間にか変わっていた日付が1月27日と表示されていた。

ゴミ捨場の横にある電柱の根元に小さなダンボールが置いてあった。みゃぁ。どうやら声はそのダンボールから聞こえているらしかった。

翔子はそのダンボール箱に歩み寄る。緩く閉じられた箱を開くと、なかに敷かれたタオルの上に小さな黒猫が1匹、こちらを見上げている。

 

みゃあお。

小さく鳴いた黒猫を、翔子は抱き上げる。黒猫はされるがまま、短い脚を宙に投げ出して琥珀(こはく)色の目で翔子を見つめる。

「お前も捨てられちゃったのか」

みゃぁ。

黒猫の澄んだ声が夜に響いた。翔子は黒猫を優しく抱きしめた。小さな体温が翔子の凍え切った身体と心をほぐしていった。

まだ輝かしかったあの日々は色あせてはくれない。けれど翔子は40歳になった。

抱きしめた小さな黒猫からは、少しだけ優しくて温かな未来の匂いがする。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。