<前編のあらすじ>
翔子(39歳)は約20年間、劇団女優として演劇の道に人生を捧げてきた。しかしその劇団が解散してしまったことにより、コールセンターで派遣社員として働くことになった。今までコンビニでのアルバイト経験しかなかった翔子は、初めてのオフィスワークに戸惑うが……。
●前編:女優からコールセンターの派遣社員に… 40歳目前、社会人経験なしの女性の苦悩
40手前で社会人経験なしってヤバいでしょ
「大きな声で話せばいいってわけじゃないの、分からないかな?」
座ったままの国見が翔子を見上げていた。翔子は立っているはずなのに、ひどく見下ろされているような気分になった。
「すいません」
「いや、謝ればいいってわけでもないの。行動で示して。佐々木さんならできるでしょ?」
「はい!」
「頼むよ? いつも返事だけはいいんだから」
国見が吐いたため息は空気に溶けることなく、のどに刺さった魚の小骨のように翔子の心に残り続けている。
年が明け、働き始めて二カ月がたっていた。仕事には慣れつつあると自分では思っていたが、国見は頻繁に翔子を呼び出して繰り返し指導した。その指導は適切なのだろうかと思うこともあった。けれど「期待しているから」「あなたのためなの」と言われると、それ以上何も言えなくなってしまった。
最近では電話を取ることに怖さすら感じる。話しているあいだも、国見に見張られているのではないかという考えが頭をよぎり、喉の奥のほうでマニュアル通りに覚えたはずの言葉ですらばらばらになっていくような気がしていた。
気持ちを切り替えようと化粧室に向かう。個室に入り深呼吸をしていると、先客の女子社員たちが談笑しながら入ってくるのが聞こえた。翔子は慌てて息を殺した。
「聞いてよ。佐々木さん、また呼び出されてたんだけど」
「完全に目つけられてるよね、かわいそ」
話している内容とは裏腹に、彼女たちの声は楽しげに上ずっている。
「やっぱ40手前で社会人経験なしってヤバいでしょ」
「やめなよ、”女優”にもきっといろいろあるんだよ」
「ねえ、あとどれくらいもつかな?」
「前の人は三カ月だったよねぇ。同じに一票!」
「えー私、そんなにもたないと思うなぁ」
出ようにも出られなかった。翔子はふたを閉めた便座に座ったまま、動くことができなかった。視界がにじんでぼやけていった。翔子は上を見上げる。
女子社員たちがいなくなったことを確認して、翔子は個室の外に出る。もう彼女たちはいないのに、こぼしていった悪意と嘲笑はまだトイレに残っている気がした。