「インターネット」と「手数料自由化」の2つの潮流
SBIグループを創業した北尾氏は、1974年に野村證券に入社し、当初から幹部候補社員として遇され、野村證券在籍中に英ケンブリッジ大学に留学、M&Aを仲介するワッサースタイン・ペレラ・インターナショナル(ロンドン)で常務に就任するなど海外で経験を積み、1991年に野村企業情報取締役、そして、92年に野村證券の事業法人第3部長に就任する。この事業法人第3部長時代に担当したソフトバンクの孫正義社長に手腕を認められ、ソフトバンクに常務として採用された。北尾氏は、孫氏から誘われたことを「天命」と感じ取ったと回想している。北尾氏が好んで読んできた中国の古典で、孔子が50歳で天命を知ったことになぞって「僕は幸いにも49歳で天命を自覚することができた」と振り返っている。そして、ソフトバンクを離れて手塩にかけて育ててきたのがSBIグループだ、そもそも、SBIは「ソフトバンク・インベストメント」の略称であったが、後に、ソフトバンクグループから独立し、「Strategic Business Innovator(戦略的事業の革新者)」の略称と読み替えた。
ソフトバンク・インベストメントを設立した1999年7月とは、まさに、インターネットの離陸期にあたる。誰もが、無料で様々な情報にアクセスできる時代、また、情報をグローバルに発信できる時代が始まっていた。北尾氏は、情報産業である金融とインターネットの親和性の高さに着目し、インターネットの最大の武器である「爆発的な価格破壊力」を生かしたビジネスモデルを構築していく。折しも、当時の橋本龍太郎内閣が「日本版ビッグバン」を提唱し、証券手数料の自由化を打ち出した。当時、アメリカでは20年前、イギリスでは10年前に始まっていた株式委託売買手数料の自由化が日本でも始まったのだった。
「インターネット」と「手数料自由化」という2つの潮流を捉えて北尾氏が志向したのが「インターネット金融で、どこよりも低い手数料を提示し、どこよりも多くの顧客を獲得し、圧倒的な存在になること」だった。北尾氏は言う、「インターネットの世界では、どんなビジネスでも『Winner takes all』だ」と。究極の低コストが「無料」であり、規制緩和で先行したアメリカで無料化が実現したことを得て、SBI証券が無料化に踏み出すことは既定路線といえた。創業当時は、規制緩和にアメリカとの間で20年の遅れがあったが、手数料無料化はアメリカに4年遅れで実現しようとしている。