理想とはかけ離れた山一證券での支店営業

10月1日を迎え、この時点で採用活動を行っている会社はほとんどありませんでしたが、わずかに大手広告代理店と、大手証券会社がまだ面接ができるとのことでした。気を取り直して大手証券会社を中心に会社訪問をし、最終的に山一證券など複数社から内定をもらいました。そして、お会いした社員の方の印象の良かった山一證券に行くことにしました。別の意図があったとはいえ、就職活動の皮切りが山一証券経済研究所でしたから、元の鞘に納まったというか、きっとご縁があったのでしょう。

一カ月の新入社員全員での導入研修を終えて配属されたのは兵庫県の姫路支店でした。ここで4年半、支店営業を経験したのですが、若気の至りでやんちゃな部下だったと思います。

山一證券は「顧客とともに繁栄する」という理念を掲げていたのですが、当時の証券営業の現場といえばどこの会社も酷いもので、今のようにお客様がリアルで株価を把握することなど出来ません。支店長がまとめて株式を買って、それを営業が自分のお客様に販売するという仕切り取引なども、頻繁に行われていました。また営業スタイルも、とにかく名簿を使って片っ端から電話をかけ、何度も訪問して顔を覚えてもらい、ようやく取引を始めていただく根性の賜物のような営業が普通に行われていました。

その頃、日本はバブル経済に向かってまっしぐらに進み始めた時期でもあり、証券会社は猛烈な忙しさでした。誰もが日々の仕事に忙殺されていたので、会社のやり方に対して「ちょっとおかしいんじゃない?」と思うことがあっても、それより目先の収益を稼ぐことに夢中だったのです。

まだコンプライアンスなどという言葉が、全く一般化されていなかった時代でしたが、年1回、開かれていた人事部との面談や労働組合のオルグなどで、自分の目から見ておかしいと思うこと、改善するにはどうすれば良いのかなどを、誰に忖度することもなく、好き勝手に発言していました。ちゃんと営業成績をあげたうえで、会社に対していろいろな提案、提言を行う。それが許されていたのは、山一のよき風土があったからだと思います。やることさえやっていれば、会社のためを思った発言は何でも聞き入れるという風潮が、当時の山一證券にはありました。そんな毎日を過ごしていたある日、人事部から異動を命じられました。