苦悩の中で楽聖とまで崇められる先駆的な作曲活動
ドイツのボンで生まれたベートーヴェンは、宮廷のテノール歌手だった父親に3歳の時から音楽教育を強いられたこともあり、7歳にして早くも演奏会を開くほどに才能を開花させた。一方、父親は課題の曲を弾き通せるまで食事もさせずに部屋に閉じ込めるなど偏狭なところがあり、ついにはアルコール依存症となって職を失い、子供たちにも当たり散らすようになる。こんな家庭環境が、ベートーヴェンの人格形成に暗い影を落とす。気難しい性格で、時には物を投げつけるなど癇癪の性癖を持つようになり、近所とのトラブルも絶えなく、転居を繰り返したとされる。
音楽の面では、モーツァルトの前で演奏をしたりハイドンに師事したのちに、20代前半にはウィーンを拠点に卓越したピアノ奏者として活躍する。25歳の1795年には「ピアノ協奏曲第1番」を作曲し自らが独奏、30歳の1800年には「交響曲第1番」を作曲・演奏するなど作曲家としての道を歩み始める。
ただ、20代後半から耳の不調が始まり、30歳を過ぎると日常生活にも支障が出るようになる。前途を悲観して、32歳の時には世をはかなみ遺書をしたためることもあった。しかし、苦悩する日々の中で、やがて音楽を通して生きていく自信と意欲に目覚め、新たな歩みを始める。その後は約10年間にわたり、次々と後世にまで称賛される傑作を生み出す。「交響曲第3番」(英雄)、オペラの「フィデリオ」、「ヴァイオリン協奏曲」などを世に出し、さらに1807年から1808年にかけては「交響曲第5番」(運命)と「交響曲第6番」(田園)を相次いで発表する。翌年の1809年には、「ピアノ協奏曲第5番」(皇帝)を公表するなど、不朽の傑作を次々と創作する。
なお、ベートーヴェンはさまざまなジャンルの創作に取り組んだが、常に先鋭的な作品を創作し、ロマン派への扉を開いたことなどから、“楽聖”と称される。
とりわけ、1824年作曲の「交響曲第9番」では、多様な新機軸が打ち出された。交響曲に初めて合唱と声楽ソリストを取り込み、軍楽隊だけが使用するのが常だった大太鼓やシンバル、ピッコロ等の楽器も使用するなど革新的な手法を用いた。