なぜ韓国は従軍慰安婦や徴用工の問題を言い続けるのか?

日本が戦争に負けた時、その直前まで朝鮮半島は日本の一部であった。厳密に言うと1910年の日韓併合により、日本の植民地になっていた。日本の敗戦当初は朝鮮半島における大韓民国臨時政府は国際的にも認められず、1948年になって米軍が朝鮮半島の米軍支配下部分だけで独立国家を作ると決めたことで、初めて大韓民国が成立した。日本の敗戦から3年後のことである。

大韓民国は日本に対する戦勝国の権利として、膨大な対日賠償金を請求したが、米国は取り合わなかった。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は48カ国と戦争終結のための平和条約を結んだが、この時、日本は初めて朝鮮半島の独立を認めている。韓国政府はこの会議に戦勝国の一員として参加しようとしたが、元々勝利者の連合国側でもなく、米国によって拒否されている。

日本は戦後処理の一環としてサンフランシスコ講和会議の後、インドネシアや中華民国、インドなどと平和条約を結び、戦争の賠償問題を解決していった。一方、韓国に対しては歴代の日本政権がさまざまな努力をするものの、領土問題や賠償金額など簡単には解決することができなかった。

1961年に韓国では軍人の朴正煕(パク・チョンヒ)がクーデターにより政権を取り、1963年に大統領に就任した。このことで、日韓基本条約の締結に向けた日韓の交渉は一気に進むことになる。朴正煕大統領は韓国の復興のためには、日本の賠償資金こそが重要と考え、当時の日本の池田勇人政権と現実的な交渉を進めていった。

朴正煕大統領は、満州国陸軍士官学校から首席で日本の陸軍士官学校へ留学するという経歴の持ち主だ。なお、彼の次女が第18代大統領だった朴槿恵(パク・クネ)であり、朴正煕大統領自身は1979年に側近によって暗殺されてしまった。

当時の日韓交渉の中には、領土問題や漁業権、在日韓国人の法的な地位、そして1910年の日韓併合条約の解釈(いわゆる歴史認識の問題)など、曖昧さを有したままの政治的な解決も少なくなかったのは事実。もっともこれは当然のことで、この種の条約交渉には付き物とさえ言えるだろう。中でも法的な根拠を持つ請求権、個人への補償と無償援助、経済協力という大きな枠組みの整理は、韓国だけでなく日本の国民にもどれだけ理解されているのか、現在も疑わしいと考えられる。

筆者が初めて韓国に行ったのは1975年ごろと記憶しているが、当時はバラックだらけで、郊外に行くと荒れ野と化しており、人々の生活の貧しさに驚いたものだ。ウォーカーヒルに足を延ばしても、戒厳令があるから12時までにはホテルに帰ってくるよう言われたことを覚えている。

ましてや1965年当時、北朝鮮よりもGDPが低い韓国の状況を何とか解決するために、日本からの11億ドル(韓国の当時の国家予算の3倍以上)ものお金は、朴大統領にとって何としても欲しいものだったに違いない。実際にこの日本からの資金により、韓国の荒れ果てたインフラは整備され、経済は奇跡的な発展を遂げていく。

象徴的な例が浦項製鉄所であり、日韓基本条約締結の翌年に朴正煕大統領肝いりで会社が設立され、当時の八幡製鉄などが全面的に技術供与をした。筆者は当時の稲山社長の指示で実際に技術支援を担当した役員の話を聞いたことがある。「稲山さんの韓国や中国に対する戦争責任に対する強い心が全面的な支援につながったけれど、その後、浦項製鉄所などは競合社となって、その後の新日鉄の経営を圧迫した。なぜ、あんなことに協力したのか、経営の大失敗だったと自分は評価している」と話していたのが印象的だった。実際に、その後の韓国経済の発展はすさまじく、もうすぐ国民一人当たりのGDPも日本を抜く可能性があるだろう。