夫が気づいた見えない作業

拓哉はしばらく何も言わなかった。やがてシンクへ目を落とし、ゴミ受けを覗く。

「……ごめん」

実花は答えなかった。

「俺、本当に分かってなかった。皿を洗えば終わりだと思ってたし、実花があとから片づけてるのにも気づいてなかった」

拓哉はもう一度キッチンを見回した。濡れたシンクも、残った生ごみも、つい先ほどまでの彼には、自分が片づけるべきものとして見えていなかったのだろう。

「俺、ちゃんと家事ができるようになりたい。どこまでやれば終わりなのか、教えてくれない?」

「それって結局、私の仕事が増えるじゃない」

「最初はそうかもしれないけど、ちゃんと覚えるよ。今まで実花が何をやってくれてたのか、細かいことまで全部。面倒かもしれないけど、教えてほしい」

実花は拓哉の顔を見た。正直まだ腹は立っている。それでも、彼が本気で自分と向き合おうとしていることだけは伝わった。

「……じゃあ、今からやる?」

「うん。教えて」

実花は小さく息を吐き、布巾を手に取った。

夫婦で共有する家事の完成形

翌日から実花は、拓哉に本格的に家事を教えるようになった。夕食後は並んでキッチンに立ち、隣で1つずつ作業を確認した。

「食器を洗ったら、ゴミ受けも空にしてね」

「これも毎回?」

「うん。残しておくと臭うから。あとはシンクの周りも拭く」

拓哉は嫌な顔をせず、生ごみを捨ててから布巾を手に取った。

「これでいい?」

「そこ、水が残ってる」

「あ、本当だ」

別の日には、拓哉が作った夕食を食べたあと、2人でコンロの前に立った。

「コンロも毎回拭くの?」

「油汚れはその日のうちに拭いたほうが楽だよ。時間が経つと落ちにくくなるから」

「なるほど」

拓哉は真剣な顔で頷き、キッチンペーパーでコンロを拭き始めた。

「終わったよ」

「そこも」

「え?」

「奥。油飛んでる」

「ああ、見えてなかった」

そんなやり取りが何日も続いた。

もちろん、すぐに何もかもうまくいったわけではない。実花からすれば家事を好きになったわけではないし、教える手間が煩わしい日もある。それでも、なぜ自分ばかりが、という不満はいつの間にか薄れていた。それに成果もないわけではない。

「終わったよ。できてるか見てみて」

しばらく経ったある日の夜、皿洗いを終えた拓哉から声をかけられた。

実花がキッチンを覗くと、食器はきれいに並び、シンクの水滴も拭かれている。ゴミ受けも空だった。

「おお」

思わず声が出る。

「何、その反応」

「だって、ちゃんと全部終わってるんだもん」

「もうさすがに覚えるって」

得意げな拓哉の横で、実花は調理台に置かれた調味料を見つけた。

「でも、これは出しっぱなし」

「あっ」

「惜しいね」

「100点への道は遠いな」

拓哉が笑いながら調味料を棚へ戻す。

「じゃあ次は、洗濯物たたむ?」

「そうだね。たたみながらドラマでも見ようか」

2人はリビングへ向かい、同じ山から洗濯物を手に取った。部屋の中では、柔軟剤のやわらかな香りが夫婦を静かに包んでいた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。