別にいいよ
病室のカーテンを少し開けると、柔らかな光が差し込んだ。梅雨空は相変わらず重たげだったが、遠くで蝉の声が混じりはじめているのがわかった。季節の変わり目は、少しずつ、しかし確かに訪れている。
ベッドの上で雄星は静かに本を読んでいた。病院の売店で買ったサッカー選手の自伝。その姿がなんだかいじらしくて、胸が締めつけられる。
「ねえ、雄星」
玲菜はそっと椅子を引いて、彼のそばに腰を下ろした。雄星はちらりと視線を向けただけで、返事はしなかった。玲菜は膝の上に手を置き、少し呼吸を整えると、言葉を選びながら伝えた。
「この前は、本当にごめんね」
自分の声が震えていないか、確かめるように恐る恐る謝罪を口にする。雄星はしばらく黙ったままページをめくり続けていた。カーテンの隙間から差し込む光が、彼の睫毛の影を頬に落とす。
「……別にいいよ」
しばらくの沈黙の後、ぽつりとこぼれたその言葉に、玲菜は涙が出そうになった。
「俺もただの頭痛だと思って、普通に部活してたし。別に母さんのせいじゃないから」
「本当にいいの?」
「いいって。あ、でもその代わり父さん説得するの手伝ってよ。退院して運動許可が出たら、絶対サッカー部復帰するんだから」
そう言うと、雄星は顔を上げてにやりと笑った。
扉をノックする音がして、玲菜の背後で扉が開く。振り返ると、雄星と同じ制服を来た高校生たちが立っていた。
「おう、大丈夫か」
「雄星、お前病室でもサッカーかよ」
「ほれ、見舞い」
ぞろぞろと入ってくるみんなはサッカー部の仲間たちだった。彼らのうちの1人が雄星に向けてサッカーボールを投げる。真っ白なボールにはびっしりと部員たちからのメッセージが書いてある。
「そうだ。お母さん、買い物しないといけないんだった。他の患者さんもいるからあんまり騒いだらダメだからね」
玲菜はそれだけ伝えて、病室を後にした。閉めた扉の向こうからは、楽しそうな雄星の声が聞こえていた。
あの時間を奪うことはきっと誰にもできないはずだ。たとえ親であっても、いや、親だからこそ雄星の声にきちんと耳を傾けるべきなのだ。
病院から出た玲菜は傘をさしかけて、立ち止まる。見上げた空には、まだ細く頼りない、けれど確かに見える一条の光の帯が差し込んでいた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。