向かった先にいたのは
車を走らせて一時間。個人事務所らしい住所は単なるワンルームマンションの一室だった。インターホンすらないエントランスを抜け、階段で2階に上がり、扉を叩く。容赦がない。どんどん、どんどんと一定のリズムで荒々しく、扉を叩き続ける。
間もなく、扉の向こう側で気配がして、鍵を開ける音がする。開いた扉の隙間から顔を出したのはスウェット姿の山里だったので仁美はホッとしかけるが、暁美が開いた扉に身体をねじ込んで強引になかへ入ったので安堵は一瞬で驚愕に塗り替えられた。
「ちょ、ちょっと何なんですか⁉」
「倉本仁美の姉です。ほら、仁美もなかに入りなさい」
お前の家ではないだろう、と思いながらも、有無を言わせない凄みがある暁美の言葉に従う。暁美はすでに靴を脱ぎ、戸惑う山里を置き去りにして部屋のなかへと入っていく。仁美はすいませんと山里に会釈をして暁美のあとを追う。山里の部屋は生活空間と仕事場を強引に1つにまとめたように雑然としていて、ベッドの隣には巨大な印刷複合機が置いてあり、あちこちに書類や書籍が積み上げられていた。
「母が死んだんです」
山里のデスクチェアに我が物顔で腰かけていた暁美が口を開く。
「仁美はね、新卒でカスみたいなブラック企業に入って、体調を崩して、それ以来もう10年以上も引きこもりだったんです」
「あ、えっと、なんとなく伺ってます」
「母にも心労ばっかりかけて、とんでもない親不孝者ですよね。生活だって楽じゃなかったと思います。でも私が援助を申し出ても、母は子供がそんな心配するもんじゃないって言って首を縦には振りませんでした。強い、ううん、気高い人でした」
暁美は相変わらず強い口調で話しているが、仁美も、もちろん山里も、話の要領を得ない。山里は、はぁとか、まぁとか、寝ぐせのついた頭をかきながら曖昧な相槌を打っている。
「そんな母が死んで、ようやく仁美もなんとかしなきゃ。自立しなきゃって思うようになって、それで始めたわけですね。あの毛糸の人形の販売。あの毛糸もね、母が小さい頃よく編んでくれたものの残りなんですよ。この子は、母との思い出を噛みしめながら、なんとかして、やっと、自分の足で立とうとしてたんです」
「ええ、はい、まあ……」
「25万」
唐突な単語を投げつけて、暁美は黙った。仁美も山里も頭の周りにクエスチョンマークを浮かべるしかなかった。とはいえ部屋の淀んだ空気は張り詰めていて、息をする音すらはばかられるようだった。
やがて暁美が鞄から冊子を取り出した。それは仁美が山里から購入した情報商材だった。
「あなたがくだらない紙っぺらの情報と引き換えに、この子から取った25万。あれは、その母がこの子の未来のために遺したお金なんですよ。あなたはそれを騙し取ったんです。分かります? ねえ」
暁美が凄んだ。山里は完全に気圧されていたが、騙したと言われてさすがに我慢がならなかったのだろう。眉間にしわを寄せ、不快感を露わにしていた。
「だ、騙したなんて人聞きが悪いですよ。……ちょっと忙しくて連絡ができてなかっただけです」
「あなたがどういうつもりかなんてどうでもいいんです。問題は、そういう大事なお金を使わせておきながら、あなたがこの内容のうっすい紙っぺらを売りつけて、仕事をした気になってるってこと。こっちはね、そっちの対応次第では、出るとこ出すつもりです」
暁美は最後に「返してもらえます? お金」とだけ告げた。山里は苦い表情をしていたが、冷蔵庫の上にあった金庫から一万円札の束を取り出し、茶封筒に入れて仁美に渡した。なんだかかわいそうな気もしたが、仁美はそれを受け取ってポケットにしまった。時間にしてみればたった5分のカチコミ劇だった。
帰りの車内で、2人は黙ったままだった。
赤信号で車が停まったタイミングを見計らい、仁美はちらとハンドルを握る姉の横顔を見る。視線に気づいたのか、暁美は前を見たまま口を開く。
「そのお金で、美容院でも行って、スーツでも買って、お母さんのことちゃんと安心させてあげなよ」
「うん、ありがとう」
信号が青に変わる。道路は果てしなく続いていて、家に着くまでの道はまだ長い。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。