推しの笑顔に囲まれて

きっかけは熱愛報道だった。

週刊誌で女性インフルエンサーとの路上キスが報じられ、智美たちファンは衝撃を受けた。〈キャンビ〉には公式に恋愛禁止というルールがあった。それでも年ごろの男の子に恋をするなというのは無理な話で、メンバーの誰が有名歌手と付き合っているとか、若手女優とテーマパークに行っていたなんてうわさ話は絶えなかった。

推しもその一人で、中学が一緒だった同郷のファッションモデルと付き合っているというのが公然の秘密だった。

たとえば推しが大切な人に贈りたいプレゼントはと聞かれて答えていたカルティエのイヤリングの写真を、そのモデルの子がたくさんある誕生日プレゼントの写真のなかでアップしていたり、注意深くSNSをさらっていけば2人が付き合っていることを示しそうな事実はいくらでも見つけることができた。だから智美たちに走った衝撃は、熱愛そのものというよりも、その相手が想定外だったことが原因だった。

恋愛禁止ルールを破った人気アイドルの二股疑惑—— それは格好の標的となった。

「けっこういいなって思ってたのに二股とかショックすぎ」

「恋愛禁止の是非はさておき、ルールがあるなら守るのがプロだろ」

「調子乗って女に手を出しまくった如月海斗、勘違いしすぎで草」

「言うほどイケメンじゃないし、歌も下手じゃね?」

「何百万使ったと思ってんだよ ざけんな」

智美はネットニュースのコメント欄をくまなくさらった。推しのアカウントはすぐに鍵がかけられ、それがまた「逃げるなよ」と物議を醸した。

誰もが口をつぐんだから真相は分からなかった。智美はネットにかじりつき、わずかな情報の断片とその何十倍ものアンチコメントを拾い続けた。介護がおろそかになり、母はお漏らしをしたまま何時間もベッドでそのままになっていた。消費者金融からの督促状が届き、スマホには同じ番号から何度も電話がかかってきていた。

推しは約10日、沈黙を守り続けた。そしてとうとうファンブログが更新された。

「本当はちゃんと自分で話して伝えるべきだと思うけど、俺はみんなが知ってる通り口下手で、きっとうまく話せないから、ブログで書きます。」

推しらしいなと思った。それは推しなりの誠実さなのだ。スマホを握る智美の手は汗ばんでいた。智美は祈るような気持ちで立ち上がり、ブログを読んでいった。

「え?」

思わず声が出たのは、「引退」の二文字が見えたからだった。

「メンバーにもファンのみんなにも迷惑かけて、俺なりにけじめのつけ方を考えたんだけど、やっぱり辞めるしかないと思いました。

逃げんなって思う人もいると思うけど、これが俺なりのけじめです。

如月海斗は〈Candy Beats〉を辞めて、芸能界を引退します。」

汗ばんだ手から滑り落ちたスマホが足の上に落ちた。智美はあまりの痛さに飛び上がり、滑って転んだ。倒れまいと伸ばした手が壁のポスターに引っ掛かり、推しの顔は半分に引き裂かれた。智美は強くしりもちをついた。

視線を上げれば、私を推しの笑顔が取り囲んでいる。けれど神だと思っていた推しは、しょせんただの人だった。恋もすれば傷つきもする、私と同じただの人間だったのだ。

急激に色あせてしまった部屋のなかで、着信音だけが鮮やかに鳴り響いている。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。