2月15日は、鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて活躍した、随筆家であり歌人であった吉田兼好の忌日である。

順調な宮仕えを捨て遁世生活を貫いた吉田兼好の生涯

本名は卜部兼好(うらべ・かねよし)であるが、吉田兼好(よしだ・けんこう)という名の方が一般的だ。これは兼好の生家である卜部家が、京都の吉田神社の神官を務めたことから、江戸時代以降に子孫が吉田姓を使用したことに由来する。

なお、30歳前後に出家遁世したことから兼好法師とも呼ばれるが、法名として音読し兼好(けんこう)と名乗ったことから、俗名でも兼好(けんこう)と呼ばれるようになる。

堀川家の家司となったのが仕事始めで、後に後二条天皇が即位すると、堀川家と縁があったことから六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐という地位にまで昇進するものの、30歳前後で出家遁世する。

出家した後は、修学院や比叡山横川などで仏道の修行を積む傍ら、和歌の修練にも努めた。鎌倉にも2度訪れ滞在もしたが、現在の横浜市金沢区にある上行寺の境内に庵を持っていたとされる。当時、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢(北条)貞顕らと交友を温めた。官位を持つ朝廷警護の前職が、こうした身分の高い人物との交流を可能にしたようだ。

南北朝時代になると、現在の大阪市阿倍野区に所在する正圓寺の近くに移住し、清貧な生活を送る。二条為世に和歌を教わり、為世門下の和歌四天王の1人に名を連ねるほどの実力があったとされる。

『徒然草』の作成は鎌倉時代の末期とされるが、その後の室町時代以降に大いに評価されるようになる。兼好の思索や雑感などが漢字や仮名文字でつづられるが、作品全般に流れる基調は「無常観」だ。

鎌倉末期は、戦乱に次ぐ戦乱で飢餓や病に人々が苦しんだ時代だ。命あるものはいつか死ぬ、形あるものはいつか壊れる、という無常観が作品に一貫している。しかし、単に嘆くばかりではなく、だからこそ今を大切に生きるべきだと訴える。同時に、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事をはじめとする制度・風俗・習慣などを盛り込むなど、王道を歩むものへの参考書としての役割も果たした。