夫が抱える転職への不安

「そこまで嫌なら、転職も考えていいんじゃない?」

「簡単に言うなよ。俺、もう41だぞ。転職して給料が上がる保証もない。拓海だってこれから金がかかるだろ」

「給料が下がるなら、私も働けばいい」

裕樹が意外そうに顔を上げる。

「でも、お前は結婚してからずっと家のことをやってきただろ。今から外で働くなんて……」

「もちろんブランクはあるし、最初は大変だろうけど、裕樹がこんな状態のまま今の会社で働き続ける方がいいとは思えないよ」

「別に……我慢できないほどじゃない」

「本当? 毎日飲まないとやってられないくらいつらいのに?」

「それは……」

勝美は一呼吸おいてから続けた。

「まあ、転職の件はゆっくり考えて決めればいいよ。でもね、頑張りすぎなくていいんだからね。それだけは覚えておいて」

「ありがとう……転職先も、探してみるよ」

裕樹は飲みかけの缶ビールを持って立ち上がり、残りを流しに捨てた。勝美はテーブルの上に残った水滴を布巾で拭きながら、ぎこちなく缶をすすぐ彼の姿を眺めていた。

転職後に戻ってきた穏やかな家庭

裕樹が夏の終わりに転職してから、2カ月ほどが過ぎた。思っていた通り、給料は以前より下がったが、新しい職場では仕事に手応えを感じているらしい。帰宅したときの表情も、以前とはずいぶん違っていた。減った分の収入を補うため、勝美も拓海が学校へ行っている時間帯を中心に、近所のホームセンターでパートを始めた。

「ごちそうさま」

休日の朝、勝美がキッチンで食器を片付けていると、背後から掃除機の音が聞こえてきた。振り返ると、裕樹がリビングの床を掃除している。

「こっちはやっとくよ」

「うん。ありがとうね」

勝美が働き始めてから、裕樹は自然に家事を手伝うようになった。誰が何をするか、細かく分担を決めているわけではないが、不思議とうまくいっている。

拓海の塾についても、つい先日、裕樹のほうから話を切り出した。拓海としてはまだ仲のいい友達が通っている塾に未練があるらしく、今度そっちの塾の体験授業にも行ってみることを裕樹と約束していた。

「なあ、勝美」

洗い物をしていると、床掃除を終えた裕樹が隣に並んできた。

「いろいろとごめんな。迷惑かけて。なんか俺、どうかしてたんだと思う。自分のことで精一杯で、勝美たちのこと、全然見えなくなってた」

「なに、今さら。気にしてないよ。むしろ、前より家事も手伝ってくれるし。よかったかも」

冗談めかして言うと、裕樹は困ったように笑っていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。