妻の沙織がパートから帰ってきたのは、外がすっかり暗くなってからだった。

玄関ドアが開いたかと思うと、廊下を軽く叩くスリッパの音が近づいてきて、修吾は反射的にスマホの画面を閉じた。次の瞬間、買い物袋を提げた沙織がリビングに入ってくる。

「ただいま。お腹空いたでしょう。すぐ夕食にするからね。あ、ご飯炊いといてくれたの?」

「ああ……」

「ありがとう、助かるわ」

米を炊いただけで感謝されるとは、何とも居心地が悪い。炊飯器のスイッチを押すくらい誰にでもできる。心の中でそう呟いたところで、一人娘の瑠璃が2階から駆け下りてきた。この春中学2年に上がったばかりの14歳。世間では親をいとわしく思う年齢らしいが、むしろ瑠璃は修吾や沙織をよく助けてくれている。

経済状況を理解し明るく振る舞う娘

「お母さん、おかえり。何か、手伝おうか?」

「ただいま、瑠璃。それじゃあ、お豆腐の水切りお願いできる?」

「はーい」

しばらくして、食卓に夕食が並んだ。献立は、豆腐とパン粉を混ぜて焼いたハンバーグと、厚揚げの煮物、もやしの味噌汁。修吾が右足を軽く引きずりながら食卓につくと、早速沙織が口を開いた。

「今日は豆腐が安かったの。卵も特売だったし、助かったわ」

「……そうか」

沙織が明るく振る舞う分だけ、修吾は返事に窮した。

「この豆腐ハンバーグ、私結構好きなんだよね。お肉より、ふわふわしてるし」

無愛想な父親を横目に、瑠璃も皿に箸を伸ばしながらにこにこと笑う。直接は口にしないが、彼女も我が家の経済状況を理解しているのだろう。もう以前のように、夕食のおかずに文句をつけることはなくなった。「小遣いがほしい」「旅行に行きたい」といった類のおねだりも、今ではすっかり鳴りを潜めている。

「……瑠璃、それで足りるのか」

「全然足りる。私、いつもお昼がっつり食べてるから。夜はヘルシーにいかないと」

「……そうか」

修吾が2年前に足を悪くして会社を辞めてからというもの、橋本家は沙織のパート収入と貯蓄を切り崩して何とか生活している。

「……ごちそうさん」

「あ、いいよ。私が運ぶから、お父さん座ってて」

「ありがとう、瑠璃。そこに置いてくれる?」

「はーい」

食後、沙織が食器を洗っている水音を聞きながら、修吾はスマホで求人サイトを開き直した。年齢、職種、給与。条件を選択するたびに、ヒット数が減っていく。

「もっと俺に見合う仕事があるはずだ」

最後まで残った求人情報を読むたび、そんな考えが頭に浮かぶ。口では早く働きたいと言いながらも、結局はプライドを捨てきれていない。仕事を選り好みしている自分自身に嫌気が差した。

「修吾、焦らなくていいからね」

いつの間にか片付けを終えた沙織が向かいのソファに腰かけていた。彼女の声は柔らかく、非難の色はない。おそらく本心から出た言葉なのだろう。しかし、だからこそ、修吾は視線を合わせられなかった。

「……分かってる」

低く答えると、沙織はそれ以上何も言わなかった。妻の優しさまでも、煩わしく感じてしまう自分が情けない。

修吾は暗くなったスマホの画面に映る自分の顔を見て、静かに息を吐いた。