久々の夫婦旅行に忍び寄る異変
智輝の夏季休暇が始まった翌日、2人はまだ日差しの弱い早朝に家を出た。
志桜里は玄関先で、カバンの中身をもう一度確かめた。昼には評判のレストランで食事をし、その後は湖畔の遊歩道と美術館を回る予定だ。宿へ入る前に道の駅にも寄れるよう、無理のないスケジュールを考えてある。
夫婦だけで旅行をするのは、息子が生まれてから初めてのことだった。
「荷物、これで全部か?」
智輝は旅行カバンを持ち上げ、車の後部へ積み込んだ。朝から機嫌がよく、何度も車体を眺めている。
「ええ。忘れ物があっても、1泊だから何とかなるわ」
「そうか。こいつで遠出するのが楽しみだな。高速なら走りの違いもよく分かるぞ」
「私は、無事に宿まで着けばそれでいいけど」
志桜里が答えると、智輝は縁起でもないことを言うなと笑った。助手席へ腰を下ろすと、車高が相変わらず低かった。
あれから何度か智輝の運転で買い物に行ったが、どうにも慣れない。隣との間隔も狭く、扉を閉めた途端、車内に押し込められたような気がする。エンジンがかかると、低い振動が足元から伝わってきた。
「やっぱりいい音だろ?」
「私には、少しうるさいくらいよ」
「そこがいいんだよ。運転してるって感じがする」
智輝は楽しそうにシフトレバーを動かし、車を走らせた。志桜里にはクラッチのつなぎ方も、エンジン音の違いも分からない。だが、智輝がここまで浮き立つ姿を見るのは久しぶりだった。納車日に抱いた不満を今さら蒸し返す気にもなれず、志桜里は窓の外へ目を向けた。
「渋滞、ひどくないといいわね」
高速道路へ入るころには、朝の空気はすでに熱を帯びていた。日が高くなるにつれ、フロントガラス越しの光が強くなり、車内にもじわじわと暑さがこもる。
「冷房、もっと強くならないの?」
「これでほぼ最大だよ。古い車だから、今の車ほど一気には冷えないんだ」
吹き出し口から風は出ているものの、額には薄く汗がにじんだ。志桜里は水筒を取り出し、冷たい麦茶を口に含む。
「こんなに暑くて、車は平気なの?」
「調子はいいよ。出る前にも見たし、走ってる感じも問題ない」
智輝の返事に、志桜里はひとまずうなずいた。予定どおりなら、昼前にはレストランの近くまで着く。道路も混んでおらず、今のところ時間に余裕はあった。
やがて智輝が、休憩しておこうと言ってパーキングエリアへ車を入れた。2人は売店で冷たい飲み物を買い、建物の中で軽く涼んだ。
「そろそろ行かないと、予約に遅れるわよ」
「大丈夫。まだ余裕はある」
車へ戻り、智輝が運転席でキーを回した。しかし、返ってきたのは、いつもの力強い音ではなかった。弱々しい機械音が数回続いただけで、エンジンはかからない。再びキーを回した智輝の顔から、先ほどまでの笑みが消えた。
●一人息子の独立を機に、長年乗ったファミリーカーを手放した志桜里夫婦。夫・智輝が選んだのは、志桜里には運転できない1000万円近いビンテージ車だった。初めての夫婦旅行へ出発したものの、猛暑のパーキングエリアで自慢の愛車に異変が起きる…… 後編【「自分が楽しむことしか考えてなかったんじゃないの?」約1000万ビンテージ車が立ち往生…夫婦を襲う“想定外の代償”】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
