母との思い出を呼び起こす季節
金曜の夕方、仕事帰りにスーパーへ寄った。牛乳と卵、野菜をカゴに入れ、いつもの順で通路を進む。
正直料理は得意ではない。特に、離婚してからはなおさら作る気が起きない。だから余計なことを考えずに済むよう、自炊のメニューはほとんど決まっていた。
一通り揃えてレジへ向かおうとしたとき、やけに明るい一角が目に入った。季節ものの売り場だった。
「あ……バレンタインか」
赤やピンクの包装、細いリボン、華奢な箱。大手菓子メーカーの広告塔が朗らかに微笑みを浮かべている。
望海は反射的に視線を外し、自分には関係ない、とそのまま足を進めた。だが、数歩行ったところで止まり、体が自然と向きを変えて棚の前に立つ。
甘ったるい香りとともに呼び起こされたのは、古い記憶。あれは、たしか中学の頃だっただろうか。
「友チョコ? それ、何人に配るの?」
「部活で交換するから、7人……でいいかな」
「ダメ、もっと多めに作って持って行きなさい。もし部活以外の子がくれたら、お返ししないとまずいでしょ?」
母に言われるがまま、大量のチョコ作りが始まった。
湯せんの湯気。混ぜるほど重くなるボウルの中身。友人から簡単だと聞いて生チョコを選んだのに、がさつな望海は何度も失敗し、そのたび母が手を出した。
「望海、火もっと弱くして。あんまり混ぜすぎないのよ」
母は泡立て器を受け取り、鍋を少しずらして温度を見る。望海は頷きながらも、結局また同じところでつまずく。
それでも母は、最後まで望海を手伝い、チョコレートは完成した。バレンタインは、母娘にとって数少ない、いい思い出だった。
(そういえば、あのときクラスでもチョコ交換したんだっけ……)
バレンタインデー当日、クラスメイトからも続々と菓子をもらい、持って行った予備のチョコは、全てそのお返しで消えたのだ。あのとき心底ほっとしたことを、望海は今の今まで忘れていた。
「……作ってみるか」
棚の前で一度息を整え、商品補充をしている店員に声をかける。
「すみません、手作り用のチョコってどこですか」
「こちらです。ラッピングもありますよ」
案内された棚で、板チョコを数枚取った。凝ったことはしない。というよりできない。作るのは、中学時代と同じ溶かして固めるだけの生チョコだ。
生クリームの少量パックと、ココアを1つ。ラッピングの箱は、小ぶりなサイズを選んだ。カゴの底でチョコの包み紙が軽く音を立てるのを聞き、望海は取っ手を握り直す。
――まあ、やるだけやってみるか。
レジを抜け、袋の重みを確かめるように持ち上げる。外気が頬に当たり、鼻先が冷えた。望海は足を止めることなく、そのまま帰り道をまっすぐ歩いた。
●母との確執を抱え、ずいぶん実家に帰らなかった望海。職場での会話をきっかけに母のことを考え始めた。母との大切な思い出であったバレンタインを思い起こし、手作りチョコを作ることを決意したのだった…… 後編【「幸せって何なのか、ずっと考えてた」母娘を繋いだ不器用な手作りチョコと母が口にした“意外な本音”】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
