帰宅後も消えない母への思い
玄関の鍵を閉めた途端、部屋の静けさが耳に入り込んだ。コートを脱ぎ、バッグを椅子の背に掛ける。流し台には朝のコップが、そのまま残っていた。温水で雑にすすぎ、伏せる。水滴が落ちる音が、やけに大きく響く。
夕飯は冷蔵庫の残りで済ませた。温め直した皿をテーブルに置いても、なかなか箸が進まない。昼間に聞いた上司の声が、まだ頭の奥に残っていた。
――会えるうちに会っておいた方がいい。
スマホを手に取って、すぐに置く。
年の瀬に聞いた母の声を思い出してしまいそうだった。しかし代わりに浮かんできたのは、5年前の記憶だった。
電話で離婚を報告したときのこと。決めるまでには、ずいぶん時間がかかった。それでもようやく言葉にして、母に伝えた。ところが、返ってきた反応は、想像していたものとは違っていた。
「離婚? 恥ずかしいじゃない。考え直しなさい」
間を置かず、言葉が重なる。
「親戚に何て言うの。みっともないことしないで」
「みっともないって何。これは私の人生の話だよ」
自分の声が低くなっているのが、はっきり分かった。それでも母は、ためらうことなく続ける。
「我慢が足りないの。夫婦なんて、みんなそういうものよ」
事情を説明するつもりだった。どうして苦しかったのか、どこまで耐えてきたのか。しかし母は、世間体の話しかしなかった。
「ちょっとは私の話、聞いてよ」
「聞いてるわよ」
「全然聞いてないじゃない。私の幸せなんて、どうでもいいんでしょう」
顔が熱くなり、望海は通話終了のボタンを押した。画面が暗くなり、部屋には生活音だけが残る。
それ以来、母には会っていない。連絡にも、ほとんど応じなくなった。
年末の電話も同じだった。表示された母の名前を見て、用件を聞く前に突き放すように言ってしまった。
「今、忙しいから」
切ったあと、胸の奥がざらついたが、折り返すことはしなかった。年が明けても、そのままだ。
「……ごちそうさま」
食器を流しに運び、スポンジで油を落とす。いつまでも、気持ちは重いまま変わらない。タオルで手を拭き、ソファに腰を下ろした。テレビをつけても内容は頭に入ってこない。望海は息を吐いてスマホを机の上に置いた。
