暖房の効いたオフィスの空気は、相変わらず乾いていた。望海はペットボトルの水を一口飲み、喉の異物感をごまかす。三十路を迎えてからというもの、毎日身体のどこかしらにちょっとした不調がある。給湯器から戻ってきた課長が、マグを両手で包みながら誰にともなく口を開いた。
「この歳になると、将来のこともちゃんと考えないとな。親の介護って、ほんと急に来るからさ」
年明けの雑談は、いつもより少しだけ私事に寄っている。向かいに座る若手も、軽く頷いた。
「ですよね。私も年末に久しぶりに帰省したんですけど、親が思ったより年取ってて。びっくりしました」
「分かるよ。帰るたびに、ひやっとさせられる。せめてあと4年……末っ子が独り立ちするまで、介護は待ってもらいたいよ」
上司は苦笑いを浮かべ、そのまま視線を望海のほうへ向けた。
「柳田のところは、親御さん元気?」
「ええ、母は健在ですが……私も、あまり顔を出せてなくて」
反射的に口角を上げながら答える。
いつからか、母の顔が浮かぶ前に、それを心の奥へ押し込める癖がついていた。
母を避け続けてきた理由
小さいころから、母は得意ではなかった。いつも正解を1つに決めたような話し方をする人だったからだ。学校で使うランドセルの色や裁縫セットのデザイン、どの習い事を続けるかどうか。望海が黙ると、母は「分かったならいい」と言って話を終わらせる。沈黙を了承と決めつけ、望海の気持ちは置き去りのまま。それが長い間、当たり前のように続いていた。
「先輩、実家ってこの辺でしたっけ」
「ううん、私は四国だよ」
「わ、遠いですね」
「離れてると、そう頻繁には会えないだろ。だからさ、会えるうちに会っておいた方がいいぞ」
「……そうですね。考えておきます」
そう答えながら、ふとスマホに手が伸びる。時間を確認するだけのつもりで画面をつけた。急ぎの通知はない。その代わり、年末にかかってきた母からの着信履歴が目に入る。
「……ふう」
スマホを伏せると、机の上で小さく音がした。
周囲ではキーボードの音が続き、プリンターが動き、誰かが書類をめくっている。
その音の流れの中で、望海だけが一瞬止まっていた。
考えないようにしてきたはずなのに、結局、考えてしまう。
望海は背筋を伸ばし、もう一度資料に目を落とした。それでも、上司の言葉と年末の着信履歴だけが、頭の端に残り続けていた。
