事務的に終わった手続き、戻らなかった兄弟関係

人が亡くなると相続含めさまざまな手続きが必要となり、相続人は協力してそれにあたることになる。それらの手続きにおいても雄也さんと俊矢さんは争うことなく、協力して淡々と進めていった。不動産の名義変更や銀行手続き、関係各所への死亡通知や葬儀・通夜の段取りなど、すべてが事務的に終わった。

だが、かつてのように食事をともにし、気軽に連絡を取り合う関係には戻らなかった。

「ちゃんと父さんと向き合ってくれたこと、兄貴には感謝してる。でも俺はちょっと寂しかったな。少しくらい俺にだって……」

俊矢さんは私の目の前でそうつぶやいた。場所は私の事務所の応接間。別件での打ち合わせの流れの中で脱線して話してくれた内容だったこともあり、私は何も言えず……。ただ「そうですね」とうなずくほかなく、その日の打ち合わせは別日に持ち越しになってしまった。

相続は家族の物語の終章

今思い返せば、この時私は改めて「遺言書が法的に有効であることと、それが“心情的に納得されるか”は別問題」ということを思い知らされた。

法の下では、遺言書は亡くなった人の意思が尊重され、きちんとした形式さえ満たしていれば、たとえ誰と相談して作られようとも有効である。雄也さんが父と相談しながら内容をまとめたとしても、それが父親の自発的な意思であれば否定することはできない。

しかし、相続は“家族の物語の終章”でもある。そこに「知らされなかった」「話してくれなかった」という感情が交ざれば、法的に正しくても、家族の関係が壊れてしまうこともあるのだ。

今回の宇野家の父親のように、誰かと相談して遺言書を作ること自体は間違いではない。むしろ、自分の死後に争いが起きないよう、家族と話し合っておくことは大切なことで、それによって争いを防げることもある。

だが、それにおいては過程が重要になる。

どれだけ後の争いを防ぐためとはいえ、こっそり一部の相続人とだけ相談してしまうと、遺言書の内容がどれほど公平であっても、他の相続人が「そこに自分がいなかった」と感じた時、残されるのは疑念と寂しさだけかもしれない。

相続人の一部と相談するのであれば、その時は家族だからこそ、事前の対話と心配りが必要ではないか。そうすることで残された人たち同士の関係を守ることにつながるはずだと、私は強く感じている。

※プライバシー保護のため、事例内容に一部変更を加えています。