ママがいなくなっちゃった
誰もいなくなったあと、康子はボーッと運動場を眺めていた。障害物リレーが終わり、その次は玉入れが始まるらしい。子供たちが設置されたかごの周りに並んでいる。あの中に李菜もいるのだろうが、やはり距離があってよく見えなかった。
李菜を探して首を伸ばしていると、救護室のドアが勢いよく開いた。振り返るとそこには両親と李菜の姿があった。
「ママぁぁぁぁ!」
康子の姿を見た途端に、李菜が抱きついてきた。患部をかばいながら、康子は李菜を抱きとめて頭をなでる。驚いた康子は両親を見上げる。
「どうして?」
母は困ったように頰に手を当てた。
「あなたが転んだあとからね、ママがいなくなっちゃったって泣き出したのよ。治療をしているだけだと言ったんだけどね、全然聞いてくれなくて」
「突然、お前が倒れてどこかに行ったから、不安になったんだろう」
父の言葉に康子はハッとする。
「私がいなくなると、1人になっちゃうから……?」
当然、李菜は何も返してこない。李菜だってどうしてそう思ったのか言語化はできてないと思う。ただ突然、いなくなった康子を見て、えも言われぬ不安を覚えたに違いない。
康子は毎日、仕事を頑張っていた。新しい職場で結果を残せば、高い給料がもらえる。出世をすれば良い暮らしができる。そうやって、他の女と浮気した元夫を見返そうとしていた。
リレーのときだって同じだった。李菜に見てもらいたいという気持ちだったはずなのに、いつの間にか男に負けてたまるかという気持ちになっていた。だから、無理をしてけがをしてしまったのだ。
「……ごめんね」
康子は李菜の気持ちを考えられていなかった。突然、父親と離れ離れになった。それだけでなく、康子は毎日のように残業で帰りが遅くなり、一緒に過ごせる時間が極端に減った。康子は両親に李菜を預けていたが、それで十分なはずがなかった。
康子は、李菜の気持ちに気付いてあげられなかった自分を反省する。李菜を幸せにするということを目標にしているつもりだった。だが、いつの間にか間違えていた。李菜を幸せにすることで、元夫を見返してやるという気持ちばかりが先行していた。
「先生に相談したら、もう、午後の競技はお休みしていいってことだから」
「分かった」
康子がうなずくと、気を遣ってくれた両親は救護室を出て行った。康子は李菜を抱きかかえ、太ももの上にのせる。李菜は少しだけ落ち着いたのか、スンスンと鼻をすすっている。康子は李菜の背中をなでてあげる。
「心配かけてゴメンね」
李菜は首を横に振った。
閉会式の時だけ、李菜は運動場に戻ったが、終わるとまたすぐに保育士に連れられて救護室に戻ってきた。帰るころには痛みも引いていて、多少は歩けるようになっていた。呼んでおいたタクシーに乗り込んで、李菜に目を向ける。
「ごめんね。せっかくの運動会だったのに、お母さん、台無しにしちゃった」
「ううん。お母さんが転んじゃったのはびっくりしたけど、とっても楽しかったよ!」
うれしそうに目尻を垂れる李菜の頭を康子はなでる。大切なのはこれだった、と康子は改めて思った。
李菜が笑って過ごせることが1番大事だった。そんなことも分からなくなってしまうくらい、自分は何も見えていなかったんだと思うと恥ずかしい気持ちになる。