救急車を呼んだ原因は…

冨美子はそれからというもの、毎晩のように入院をしていた期間の幸せだった時間を思い起こした。そしてまた体調が悪くならないかと祈った。

だから唾を飲み込んで喉にかすかな痛みを覚えたとき、冨美子はようやく来たと喜びを覚えた。うれしくなった冨美子はすぐに緊急通報ボタンを押して、玄関で救急車の到着を待った。「ちょっと、喉が痛くて息ができないし、声も出ないんだよ」

「……じゃあ、取りあえず救急車に」

救急隊員の顔を見るや冨美子は前のめりに訴えたが、彼らは担架も使わずに冨美子を救急車へ乗り込ませる。病院についてから診察を受けても、誰も冨美子に優しい声をかけてくれることはなく、流れ作業のように診察を終えた。

「一応……」と、渋る医者から処方箋を出してもらい、病院を後にした翌日、久しぶりに幸代が実家に帰ってきた。しかし以前とは打って変わり、幸代が怒っていることは一目瞭然だった。

「病院から電話があった。どういうつもり?」

「何のことだい?」

冨美子は悪びれずに首をかしげる。幸代は深く溜め息を吐く。

「喉が痛くて救急車を呼ぶなんて非常識なことしないで。 私が代わりに謝ったんだから。 お願いだからさ、恥をかかせるようなことしないでよ」

恥をかかせる、と言われて、冨美子の顔の奥はかぁっと熱くなった。

「だ、だって体調が悪かったんだよ! なんでそんなふうに怒られないといけないんだい⁉」

「喉が痛い程度なら、タクシーでも使って病院行けば良いでしょ。 何でわざわざ、救急車なんて呼ぶのよ⁉」

「だ、だって……」

言いよどんだ冨美子に、幸代はたたみかけるように言葉を重ねた。

「病院の人が言ってた。高齢者の人がこういう不適切な利用をするときは大抵が誰かの気を引きたいとか、寂しさを紛らわすためなんだって。どうせ喉が痛いのだって仮病なんでしょ?」

「ち、違うわよ!」

「あのね、救急車を不適切利用したらいけないの。消防法や偽計業務妨害で罰金をとられたりする場合もあるの。知ってた? お母さんは罰を受けたいの?」

「そ、そんな大げさな……」

「本当よ! 私がそう言われたんだから!」

どうして罰を受けるのかが分からなかった。悔しいのか悲しいのか分からないのに、顔の奥にあった熱は涙に変わって、視界をにじませた。

「寂しいのは、そんなにいけないことなのかい……」

そう絞りだした瞬間、冨美子の目から涙があふれた。みじめだと思った。いい年して泣くなんて恥ずかしいと思った。けれど涙は止まらなかった。

「ごめん。言いすぎた」

やがて、幸代のかすれた声が聞こえた。冨美子は視界を覆う涙を拭った。拭っても拭っても、涙はあふれた。

「ううん、違うわ。言いすぎただけじゃない。ずっとほったらかしにしててごめん。お母さん、お父さんが死んじゃって寂しかったんだよね」

冨美子の身体を、優しく包み込む体温があった。冨美子はその温度にすがるように、幸代のことを抱きしめ返す。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

冨美子は子供ように泣きじゃくった。