突然倒れた夫

夕食を終えると、和子はいつものようにテレビを見始める。茂は詩織が片づけたテーブルで夕刊を読んでいる。最近めっきり視力が落ちたらしく、老眼鏡が手放せないと嘆いていた。

自由時間を過ごす2人を横目に見ながら、詩織は食器を洗っている。似たもの親子なのか。2人は本当に何もしない。和子にいたっては詩織の家事にいちいち口を出してくるものだから余計に性質が悪かった。一体いつまでお客さま気分で過ごすつもりなのだろうか。

悩みは尽きない。おかげで最近よく眠れないし、なんだか頭もぼんやりとしている気がする。職場の後輩には「詩織さん、めっちゃ疲れてますね」と心配された。ここ数日、それとなく化粧を濃くしているのは目の下のクマを隠すためでもあった。

「ねえ、茂さん。お風呂の掃除してきてくれない?」

「あ、うん。分かった」

「詩織さん、茂にお手伝いみたいなまねさせるつもりかい? 茂は疲れて帰ってきてるんだよ。家くらいしっかり休ませてやんないと」

詩織は思わず舌打ちをしそうになる。こっちだって仕事から帰ってきて、座る間もなく食事を作り、片づけをしている。茂がのんびり新聞を読んでいていい理由はない。

「まあ、母さん。働いてるのは詩織だって一緒だから」

「誰も頼んじゃいないんだよ。好きで働いてるんだから、家のことは責任もってやってもらわないとダメさ」

少しくらい言い返してくれたっていいのに、こうなると茂はだんまりを決め込み、私が折れるか話題が変わるのを待つばかりだ。情けない。2人で幸せにと決めたことが、ばからしくすら思えてしまう。

「分かった。もういいから。茂さんは座ってな」

茂は安心したように息を吐き、再び新聞に視線を落とす。詩織はバスルームへ向かう。

磨いた浴槽を流していると、リビングのほうで物音がした。構っている暇はないと意識から締め出し、シャワーの勢いを強める。

「詩織さーん、詩織さーん」

和子が声を張り上げ呼んでいる。

「もうなんなの!」

詩織はシャワーを止めてリビングに戻る。

茂がテーブルの横でうつぶせになって倒れている。血の気が引いた。

「詩織さん、あんた何度呼んだって全然来やしないじゃないか。しげ――」

「うるさい! だったら呼びに来い!」

詩織は茂をあおむけにし、呼吸を確認する。息をしていない。ぼうぜんとしている和子を詩織はにらみ付けた。

「119番に通報して! それと玄関の棚、救急箱の隣にAEDがあるから持ってきて!」

「え、えーいー ……何だって?」

「AED! オレンジ色のバッグ! 急いで、息子が死ぬよ!」

詩織は和子に指示を出しながらも、意識のない茂の気道を確保し、人工呼吸と心臓マッサージを始めていく。

「詩織さん、これのことかい?」

玄関のほうから和子の声が聞こえてくる。普段の態度が横柄なだけに、役に立たないことがどうしようもなくいら立つ。

「これだと思うもの全部持ってきて!」

詩織はキッチンに置きっぱなしにしていたスマートフォンを取り、自分で119番に通報する。もちろんそのあいだも、詩織の両腕は茂の胸を小刻みに圧迫し続ける。

詩織が看護師であることもあって、もしものときにと家庭用のAEDを用意してたのが功を奏した。和子がのそのそと見つけ出してきたAEDを開き、ハサミで服を切ってあらわになった茂の胸へと電極のつながれたシートを貼り付ける。スイッチを押すと茂の身体がびくんと動く。和子は隣でただ悲鳴を上げている。