バブル期の狂乱の中、運用者としてのキャリアをスタート
1980年代後半の日本経済はまさにバブルで、株価も不動産価格も上昇し続け、日本の名だたる大企業は金融子会社を設立し、「財テク」と称して積極的に資産運用を行っていました。
私が配属された金融子会社は、社員数10数名程度の小規模な子会社でした。簿記や会計に関する浅はかな知識しか持っていなかった私が、そこで入社から3年目には大きな額のポジションを与えられ、運用を任されてしまいました。資産運用のイロハを教わることもなく、まったくのOJTです。私は先輩社員の仕事ぶりを見ながら運用の仕事を覚えていきました。
しかし、悪い意味でベテラン揃いの部署であり、運用手法は非常に古典的でした。当時、徐々に運用の世界に入り込んできたデリバティブも、あるいは証券投資理論もあったものではありません。特に上昇の一途をたどっていた日本株の運用現場では、ただひたすら特定の銘柄を買ったり売ったりを繰り返して、短期売買で利益を上げていました。それも、実は後日、証券不祥事で明らかになりますが、損をした時には証券会社が損失を補填するという、今では考えられないような条件付きで、証券会社が勧めてくる銘柄の売買を繰り返していたのです。
そんな、今にして思えばろくでもない運用の現場ではありましたが、私は海外で広まりつつあった最先端の金融商品を扱う仕事に関わることができました。なぜなら、先輩社員たちでは理解が及ばなかったからです。
とはいえ、運用の現場で行われていた無茶苦茶が、いつまでも続くはずがありません。1990年になると、政府・日銀がバブル退治に動き始めました。不動産融資規制が行われ、それまで下げ知らずの上昇を続けてきた不動産価格が下がり始めたのです。同時に株価も急落しました。バブル経済の崩壊です。こうして日本経済は、長期の深刻な不況へと突入していったのです。