俺は逃げるように立ち上がって部屋を出た。ここまで何も言い返せなかったのは、高校のラグビー部の試合で顧問に怒られて以来記憶にない。営業カバンを胸に抱え、女医の顔も見ずに一目散に診療所を飛び出した。

 井の頭公園駅方面に向かう交差点で信号に捕まり、ふと我に返る。そう言えば、お金を払っていない。いくら厳しいカウンセリングだったとは言え、サービスを受けたことは確かだ。このまま逃げ出したら、泥棒と一緒じゃないか。クソッ……。

 小走りで診療所に戻ったが、女医の姿は見当たらない。代わりに受付台の中に、容姿端麗で優しそうな、俺とは違ったタイプの、仕事ができそうな男性がいた。年齢は自分と同じくらいだろうか。

「すみません、先ほどは……」

「よく戻ってきてくださりました。ほとんどの人は心が折れてしまうのに、あなたはそうならなかった。実に素晴らしい! さあ、こちらへどうぞ。忌部先生、お願いします」

 正直、もう二度と戻りたくはなかった。お金だけ払ってここを去るつもりだったが、男性の晴れ晴れとした笑顔とどこか特別なオーラに、男の自分でもトロンとしてしまいそうだった。言われるがままに診察室に戻る。

 忌部と呼ばれた女医がパソコンと向き合っていた。株価チャートを見ているようだった。

「あんたが含み損を抱えてる銘柄って、これじゃない?」

 パソコンの画面には「トリリオンバイオ」という企業名と、マッターホルンの山頂のような株価チャートが表示されていた。今最も見たくない形だ。

「そ、そうです! 何でわかるんですか?」

「ど素人が引っかかる銘柄なんて、だいたい決まってるのよ。特にこの銘柄は、目下SNSで急速に拡散されてる。あんたみたいな人が大勢引っかかるのよ」

「つまり、俺は騙されたというわけですか?」

「はぁ!? 騙されたぁ? ふざけないで。だいたいあんた、この株で儲けようと思ってヨダレ垂らしながら買ったんでしょ? 自業自得、自己責任。悪いのは全面的にあ・ん・た!」

「波野さん、最初はみんなそうです。忌部も、波野さんみたいな人を助けたくて、診療所を始めたんですよ」

「……」

「……」

「波野さん、あなたはとても運が良い! ここは投資がうまくなれるかどうかの、最初にして最大の分岐点です。あなたの努力次第で、きっと良い方向に進んで行けます。未来への明るい扉を開きましょう」

 不思議な男性だ。この人のことを聞いていると、本当にすべてがうまくいきそうな気がする。

「……俺はどうしたらいいでしょうか?」