「また粉ミルクをあげてる」
久しぶりに美容院くらい行こうかと毛先の枝毛を眺めた矢先、陸人が爆発したように泣き声を上げる。時計を見れば15時を回っている。陸人のミルクの時間だった。萌は立ち上がり、哺乳瓶にミルクを用意する。ミルクを飲み始めると陸人はすぐに泣きやんだ。夢中で飲む姿を見ているだけで、萌は思わず頰が緩んでしまう。
「あ、また粉ミルクをあげてる」
声がして振り返ると、そこには洗濯ものを干し終えた暁子の姿があった。暁子はしかめ面で萌がミルクをあげている様子をにらみ、あからさまなため息をついた。
「萌さん、私はいつも言ってるでしょ。子供には母乳が一番なんだって。どうして、そんな粉ミルクなんてあげるの? 陸人のことがかわいくないの?」
萌は内心で深くため息をつく。暁子がこうして家事を手伝ってくれることはとてもありがたい。子育てをしていく上で、人手が多いことはとても助かるし、暁子は手際よくてきぱきとやってくれている。それは認めた上で、困っているのが授乳に関してだ。暁子は毎回、母乳で授乳することを求めてくるのだ。
「お義母(かあ)さん、毎回言ってますけど、私は母乳が出にくい体質なんですよ。だから粉ミルクを使ってるんです」
「あのね、それはあなたの体調管理に問題があるの。しっかりと食事を取って、早寝早起きを心掛ければ、母乳は出るようになるって言ってるでしょ。あなたの不摂生で、陸人が粉ミルクなんて飲まされてかわいそうじゃない。体質体質って、そんな便利な言葉で母親の怠慢を正当化しないでちょうだい」
そうはいっても陸人の世話をしていれば自分の食事はどうしたって二の次になってしまう。それに、暁子は昼間の陸人しか知らないが。陸人は夜泣きがひどかった。早寝早起きの規則正しい生活なんてできるはずもない。
「粉ミルクをどうしてそんなに敵対視するんですか? 今は粉ミルクだって母乳とほぼ同じ成分が使われてるんですよ」
暁子の表情がどんどん真顔になっていく。暁子は怒りが募るほど、表情から感情がなくなっていくのだ。
「子供っていうのはね、昔から母乳で育てるものなの。それは決まってるの。真也だって母乳を飲ませたおかげで、元気に育ったんだから。粉ミルクは無駄なお金もかかるんだし、今すぐに止めて、ちゃんと母乳に切り替えなさい!」
暁子が声を張り上げると、びっくりした陸人が泣き出してしまった。
「あぁ、よしよし、泣かないで~、びっくりしたね~」
萌が陸人をあやし始めると、暁子もそれ以上は何も言わなかった。しかしなかなか泣きやまない陸人を腕に抱きながら、萌のなかにはもやのような、しこりのような、居ずまいの悪さが残った。