これ以上、母さんに迷惑をかけるわけにはいかない

「バイト着、洗濯しちゃうからね」

家に着いた里奈はそのままトートバッグを洗面所まで運び、閉じられていたスナップを外す。

「あ、ちょっと待って」と、慌てた孝が洗面所に駆けつけたときはもう遅く、バイト着を取り出した里奈の目には、その奥に入っていた海外留学と書かれたパンフレットが見えていた。

「……何これ?」

里奈が手にしたパンフレットを見て、孝はしまったという顔をする。

「海外留学って何? どういうこと?」

「……何でもいいだろ。勝手に見るなよ」

「勝手にじゃないでしょ。海外留学の話なんて私が聞いてないわよ?」

里奈は自分の口調がまた強くなっていることに気付き、深呼吸をした。

「どういうこと? ちゃんと話して」

しかし、孝の口は重く閉ざされている。

「あなたが何をしたいのか、ちゃんと知っておきたいの。そうじゃないと、こっちだって応援できないでしょ?」

「海外留学を考えてたんだよ、前から……」

「どうして?」

孝は首筋をかく。

「英語、勉強したいと思って。翻訳とか、興味あるから……」

「そうだったんだ」

「やっぱり日本で勉強するだけじゃ限界があって、いろいろ考えたけどやっぱ留学費用って高いし。でもうちの大学、オーストラリアの姉妹校との1年間の交換留学のプログラムがあるから、それなら学内の審査に通れば、100万くらいで行けるんだ。そんくらいなら、俺のバイト代でもなんとかなるかなって思って」

「じゃあ、最近バイト頑張ってたのって……」

孝はうなずいた。里奈は何も気づいていなかった。孝が具体的に考えて留学のために行動していたことも、翻訳の仕事に就きたいと思っていることも、何ひとつ。

「でも、もう、無理だね……」

「何でよ?」

「だってもうこれじゃ、しばらく働けないから……。審査に通っても、金払えないよ」

孝の目には涙が浮かんでいた。里奈は唇をかんだ。

「何で相談してくれなかったの」

里奈が吐き出した言葉に、孝は苦しそうに眉間にしわを寄せた。

「母さんに言ったら、また迷惑をかけると思って」

「迷惑……?」

「もう、これ以上、母さんに迷惑をかけるわけにはいかないだろ。母さんは俺のためにずっと頑張って働いてくれてきたじゃん。だから、留学費用まで出してなんて言えねえよ」

隠されていたことにはショックを覚えたが、それ以上に、親として失格だと自分を責めた。金銭的なことについて、孝は里奈のことを気遣っていたのだ。里奈はけんかをしたときに、思わず学費のことを言ってしまったことを、余計に悔やんだ。

息子のことが分からないと思っていた。しかし孝は昔と変わらず、優しい性格のままだった。

「お金なんて、気にしなくていいのよ。留学くらい、全然なんとかなるんだから」

「でも、費用は……?」

里奈は孝を安心させようと笑みを浮かべた。

「孝が小学生の時から、洋祐と2人でコツコツためてた学資積立があるの」

「……それは知ってるよ。それで大学に入学できたんでしょ?」

里奈は首を横に振る。

「ううん。まだ満期金は受け取ってないの。私立の大学は学費が高いから、もしものときに取っておこうと思って。だから入学費用は洋祐の保険金と私が働いたお金から出してるの」

孝は驚きの表情になる。

「え……?」

「だから、留学費用は十分、準備できるよ」

「……うん」

里奈は背中を軽くたたく。その瞬間、安堵したからか、孝の目から涙がこぼれる。母親に泣いているところを見られるのも嫌だろうと思い、里奈は孝を抱きしめる。抱きしめてから、これも嫌だっただろうかと思ったが、孝はそのまま動かなかった。