<前編のあらすじ>

美弥子(48歳)は、大学生になった息子を置いて、夫の竜也(52歳)と初めてのキャンプに来ていた。せっかくだから自然を満喫したいと、人が集まる場所からは少し距離を置いてテントを張り、近くの川でくつろいでいる間に何者かによって荷物が荒らされてしまう。

通りすがったキャンパーに「熊かもしれない」と忠告されるが、熊よけの鈴など、事前準備に自身があったことから、移動せずにそのまま夜を迎えた。

夜、眠りについた美弥子はテントの外から聞こえる物音で目を覚ました。大量の枝をへし折るような音、ガリガリひっかく音など、各実に「何か」がそこにいる音だった……。

●前編:「もしかしたら熊の仕業かもしれません」アラフィフ夫婦が危機に陥った「自己判断の恐怖」

熊と目が合ってしまった

美弥子が恐る恐るテントから外をのぞくと、消えたたき火のところに大きな熊がいた。熊はクチャクチャと音を立てて、何かを食べているようだった。

「あっ……」

視線に気づいた熊と目が合ってしまい、美弥子は思わず身を隠す。叫びそうになる口を両手で抑え、必死で堪えた。美弥子は下唇を血が出るほど強くかんで、その上から手のひらで押さえ、息を殺した。全身が心臓になったように激しく脈打ち、もはや自分の鼓動以外何も聞こえなかった。動けば気づかれてしまうのではないかと思うと、美弥子はまばたきすら満足にできなかった。

薄っぺらいテント越しに、獣の荒々しいそしゃく音が不気味に響いていた。

(えっとえっと……まずは落ち着いて! それから静かに! あとは……なんだっけ?)

美弥子の思考は、恐怖とパニックに塗りつぶされ、ほとんど意味をなさなかった。竜也と一緒に確認したはずの熊遭遇時のマニュアルは半分も思い出せなかったし、持参した熊撃退スプレーの存在もすっかり頭から抜け落ちていたのだ。

永遠とも思える時間の後、熊の気配が遠ざかっていくのが感じられた。気配が完全に消えて辺りに静寂が戻ると、美弥子は大きく息を吐きながらその場にへたり込んだ。

ようやくまともに呼吸ができるようになると、今度は「熊に遭遇した」という恐ろしい現実が美弥子に襲い掛かって来た。自分たちの寝床から、5メートルも離れていない距離に野生の熊が出たのだ。いつの間にか背中にびっしょりと嫌な汗をかいていたが、そんなことを気にしている余裕は美弥子にはなかった。

「あなた......! あなた起きて! 熊が出たわ!」

美弥子が今度は激しく揺さぶりながら呼びかけると、やっと竜也は眠たそうにのっそりと身体を起こした。

「うぅん……何が出たって? 虫なら自分で退治してくれよ」

「虫じゃなくて熊よ! 熊! あの人が言った通り、すぐそこに熊がいたの!」

美弥子が押し殺した声で叫ぶように言うと、竜也ははじかれたように立ち上がった。

「熊だって……⁉ どこにいる?」

「ついさっきまでたき火のところにいたのよ。私、心臓が止まるかと思ったんだから」

美弥子は、竜也に説明しながら先刻の恐怖体験を思い出して思わず涙声になった。竜也は美弥子から話を聞くと、青ざめた顔でリュックサックから熊よけスプレーをとり出し、テントの入り口をにらみ付けるように座り込んだ。

「僕が朝まで見張っておく。異変があれば起こすから、美弥子は少しでも眠っておいて」

竜也はそう言って寝ずの番を申し出てくれたが、結局、美弥子は朝まで眠ることができなかった。昼間はあんなに心地よいと感じていた自然音も、熊と遭遇した美弥子にとっては恐怖の対象でしかなくなっていたのだ。