妻が夫より先に売れたから?
ドラマ化による忙しさも落ち着き、以前のペースでこなせるようになったころ、卓志から久しぶりに連絡が来た。
3カ月ぶりに帰った家は、きれいに整理整頓されていた。いつもの食卓に座っていた卓志は決意を秘めた目をしている。
その瞬間、そういうことかと納得した。
「千尋、俺たち、もう終わりだよ」
千尋が座るとすぐに、卓志はそう切り出し、離婚届を机に置いた。
もうすでに卓志が記入する欄は埋まっている。
「……そう」
「お互い別々の道に進もう」
千尋はじっと何かに耐えるように、唇をかんだ。現状を見れば、お互いのために離れた方がいいのだろう。それはよく分かる。卓志からの連絡がきたときも、千尋はこうなることをある程度覚悟していたように思う。
自分たちは、一体どこでボタンを掛け違えてしまったのだろうか。
かんだ唇がほころんだとき、吐き出す息の代わりに言葉が口を突いた。
「……離婚の原因は何? アシスタントだった私のほうが売れたから? それとも妻の私が夫のあなたよりも売れたから?」
卓志は口を真一文字に締め、千尋の口からは考えるよりも早く言葉があふれでる。止まらなかった。
「やっぱりあなたのプライドがそれを許さなかった? てことはあなたが売れてたら、離婚なんてしなかった? 私がずーっとあなたの下で売れない漫画家を続けていれば、離婚なんてしなかったんだ」
「……そういうことじゃねえよ」
「じゃあ何で離婚なの? 別に離婚したくないって駄々こねてるわけじゃないの。こっちだって清々している部分もあるし。いつまでも売れない漫画家の愚痴を聞かなくてよくなるからね。でも、納得いく理由は頂戴よ」
「お前はお前で、しっかりやれるようになったんだ。だったらもう一緒にいる意味はないと思ってな」
千尋は深く息を吸った。だが吐き出そうと思った言葉は喉の奥のほうでほどけ、声にはならなかった。
結局、千尋と卓志は漫画家同士でしかなかっただろう。戦友でしかなかっただろう。書面を交わしただけで、自分たちは夫婦になり損ねていた。
けれど千尋は、卓志と夫婦になりたかった。そのために、いろいろなことを犠牲にし、耐え抜き、生活を続けてきた。だがそれでも千尋の願いが実ることはなかった。
足りなかったのは、自分だろうか。それとも夫だろうか。妻が夫よりも売れることは、夫婦関係を壊さなければいけないほどの罪なのだろうか。
千尋は吸った息を、そのまま吐いた。もう何を言っても無駄だった。
「これからどうするの? 私はまだしも、次の連載のめどあるの?」
「当ては、あるよ?」
「へえ、何?」
「知り合いで、飲食やってる人がいるから、そのお店で働かせてもらおうかなって……」
やっぱりもう、志藤現在は筆を折るつもりなのだ。
「もう疲れちまったよ。編集とか読者の顔色伺いながら描くのさ。向いてなかったんだよ。辞めるって決めたら気楽だ。こんなに息を吸うのが楽なのは久々だ」
千尋は出掛けた言葉をのんだ。息が吸うのが楽な人は、そんなふうに悔しそうな顔をするはずがない。何て言葉をかけていいのか分からなかった。
代わりにペンを取り、机の上の離婚届に記名を済ませる。
「……財産分与とか、あとは弁護士に任せましょうか」
「……ああ。そうだな」
「それじゃあ、私、行くわね」
「うん。千尋、今までありがとう。お前の作品の成功を心から願っているよ」
千尋は目線を床に落とした。
バカね。それをもっと早くに言いなさいよ。いや、違う。きっと離婚するから言える言葉なのだろう。
「ありがとう。あなたと、そしてあなたの作品と出会えたことで今の私があるの。本当に感謝してる」
卓志はだらりとうなずいた。
「もうあなたとは夫婦でも弟子でもアシスタントでもなくなる。でも、ファンではいさせてよね。志藤現在は、ずっと私の目標でもあるんだから」
千尋はそれだけ言い残して、卓志に背を向けて2人でたくさんの時間を過ごした家を後にした。振り返りはしなかった。だから千尋の言葉に卓志がどんな反応を見せたのか、千尋には分からなかった。