――国内企業の賃上げ率がバブル期並みまで上昇した背景は。
いま起きている賃上げのムーブメントは3つの要因に整理できます。
1つ目は、やはり物価の上昇です。海外で激しいインフレが起き、輸入物価を通じて日本国内の物価も上がってきています。国民生活に深刻な悪影響が及ぶ事態を避けるには、政府が意識的に企業に働きかけて賃金の上昇を促さざるを得なくなっています。
2つ目は、賃金と物価の連動性です。賃金が上がれば国内経済の7割を占めるサービス産業の価格にも上昇圧力がかかります。
そして3つ目は、日本経済の構造問題である人手不足です。賃金が社会全体で一様に上昇するわけではありませんが、賃上げ率の高い企業や産業がその他の企業をけん引していく好循環を生むことが重要です。
――物価上昇と賃上げの負の影響は。
最も厳しい層は年金生活者でしょうね。基本的に公的年金は物価や賃金の上昇に連動する設計になっているものの、「マクロ経済スライド」の導入により年金額の増加に歯止めがかけられています。物価上昇や賃金上昇で恩恵を受ける人たちと、むしろ被害を受ける人たちの間で、ある種の格差が拡大しています。
ただ、振り返ってみると、過去20年のデフレ時代は、物価も賃金も上がらない中で雇用が厳しかった半面、国民一人ひとりの年金受給額は下がらなかったので、高齢の年金受給者にとってみれば好ましい経済環境であったといえます。社会全体の分配でみると、現役世代の勤労者よりも年金生活の高齢者のほうが有利になりやすいのがデフレ時代の特徴であり、インフレ時代に入って巻き返しが起きているとも表現できます。それが良いか悪いかはともかく、そのような傾向があることは事実ですし、NISAの話に戻れば、現役世代の所得向上のあり方にも関係してきます。
――ピケティの「r(資本収益率)>g(経済成長率)」の不等式が広く知られるようになりました。
ピケティは数百年にわたるデータを調べ上げ、富の分配が偏る根本原因が「金利が経済成長率よりも高い」という不変の構造にあると明快に言い切りました。2000年代の後半から世界的に経済成長率が下がったことで、富裕層と貧困層の格差や労働分配率の低さなどがあらわになったという背景もあり、ピケティの著作が人々の大きな関心の対象となりました。
ピケティの議論は、英国やフランスなど欧州のデータを基礎にしており、ごく一部の資産階級に不動産や債権が集中し、それが格差を生み続けているというストーリーを展開しています。ですから、日本のように太平洋戦争や戦後改革などで資産が国内に広く分散した国にピケティの議論をそのまま当てはめるのは好ましくはありません。そうはいいながらも、やはり一般の国民、いわゆる労働者も株や投信、不動産関連の資産を一定額持つことで、より高い資産機会を得られるようにすることは重要なテーマです。この点では日本がこれまで消極的すぎたために、日本の一般のサラリーマン世帯を米国の同じような世帯と比べると、生涯所得や資産所得で大きく見劣りするのはまぎれもない事実です。そこを是正するという意味ではピケティの議論が一つの参考になります。
――日本の置かれている状況はそれほど特殊なのですか。
例えばロンドンの主要な土地を所有しているのは、ごく一部のファミリー(一族)です。しかし日本の場合は、60歳以上の方であれば、数千万円の資産をお持ちの方が数多くいらっしゃいます。そういう意味で見ると、分配といっても西欧の分配と日本の分配ではかなり違った様相を呈しています。それは決して、日本において分配の問題が重要ではないという意味ではありません。日本の場合は、資産を比較的多く持っている高齢者と、経済の低迷に苦しんできた世代の間の格差こそ問題です。日本は日本なりに新しい分配のあり方を考えていくべきしょう。新しいNISAがスタートした今が、日本型の分配のあり方を考えるには非常にいいタイミングなのかもしれません。
長生き時代ですので、現役時代の所得をどのようにしっかり維持し、人によっては元気であれば少し長く働くとか、これまでの仕事で培ったノウハウを生かしつつリスキリングによって新しいスキルを磨いていくか、といった論点が欠かせません。
――日本の資産形成を促すために強化すべき点は。
家計のファイナンシャル・プランナーのしくみでしょうね。米国では当たり前のように、ファイナンシャル・プランナーに運用を任せ、多少はリスクを取りながらも家計の資産を増やしていくことで老後の資金を稼ぐことが行われています。それがやはり日本には欠けている。私の米国の知り合いでも先日、97歳のご夫妻が亡くなったのですが、本当に普通のサラリーマン世帯であっても、老後に海外旅行を頻繁に楽しんでいらっしゃいました。どうしてそのようなことが可能かというと、やはり何十年と付き合っているファイナンシャル・プランナーがいて、その人がしっかり資産を管理してきたそうです。日本でもライフサイクルの中でどういうふうに資産形成するか、という観点が不可欠です。
――ピケティの「r>g」は今後、どのように読まれていくしょうか。
金利と成長率を突き合わせたというのは非常に重要なポイントです。今まで日本はデフレで生きてきました。現時点では金利よりも成長率のほうが高い状態ですが、今後は金利が上がってくると、ピケティが指摘した格差拡大の問題に加え、政府の財政の問題も深刻さが増してゆくことになります。成長で得られる税収の上積みよりも、金利上昇で国債費の負担がさらに増えていくわけですから。
日本でも新型コロナ以前は、十分かどうかはともかく、プライマリー・バランスは縮小するなど財政健全化の流れがありました。しかしコロナによって財政出動がかさんでからは、財政健全化の機運もしぼんでいます。国民の意識のなかでも増税を容認する空気はありません。日本においてピケティの「r>g」は、財政負担のシンボルという色彩を帯びることで、税負担のあり方をめぐる国民的議論を喚起していく不等式になるかもしれませんね。