こんなに心躍るのはいつぶりだろう、そんなことを田中勇司は考えていた。
サラリーマンをしているとき、こんな気持ちになった日は一度もない。
だからきっと学生時代以来になる。
勇司は今日、念願かなってそば屋を開店する。
ずっと夢を抱いていたが、実現はきっと遠い未来なんだろうなと思っていた。
事態が変わったのは会社が早期退職者支援制度を発表してから。
退職金を割り増ししてもらえると聞き、勇司はすぐに妻の皐月に相談した。
勇司が趣味でそば打ちをしていることを知っていた皐月は、勇司の熱意を感じて、そば屋の開業を認めてくれた。
それから皐月と2人で開店に向けての準備を始め、そしてようやく開店日にこぎ着けることができたのだ。
脱サラ人生のスタート
「開店おめでとう」
店を開けて最初にやってきてくれたのは勇司が店を出すこの商店街で連合会の会長をしている長田さんだ。
長田さんは今回の開店に向けていろいろと手伝いをしてくれた恩人の1人。
長田さんのおかげで周りのお店の店長さんたちとの良好な関係が築けたのだから、頭が上がらない。
そして勇司は店をオープンさせたときに最初に食べてもらいたいと申し出て、長田さんを招待していたのだ。
勇司の自慢の手打ちそばを食べて、長田さんの顔がほころぶ。
「うん、うまいよ。これなら、人気店になるな」
長田さんの評価を得られて勇司はほっと胸をなで下ろす。
そばへのこだわりには自信を持っていた。そば粉とつなぎの割合を何度も吟味して、勇司が行き着いたのは二八そばだった。
つなぎを使わない十割そばがもてはやされる流れではあるが、それを作るには熟練の腕が必要だ。
勇司は何度も試作をしたが、ぼそぼそした食感のそばしか打てなかった。
しかし二八そばであれば、風味を損なわず歯切れの良いそばを打つことができる。
そこで勇司はこの二八そばで勝負をしようと決めていた。
「ごちそうさま、今度は普通にお客さんとして来させてもらうよ」
そう言って完食した長田さんは店を出て行った。
開店して1カ月、店は思ったよりも好調な滑り出しだった。
要因は立地環境。
今時の商店街なんてどこもシャッター街と化しているのが常だ。
しかしこの商店街は長田さんのおかげで、常に客でにぎわっている。
そんな人気の商店街でありながら、そば屋はうちの店を入れて二軒しかない。
しかもその一軒はいわゆる高級なそば屋で、リーズナブルな価格で提供するうちとは客層がかぶらない。
つまり、お客をある程度、独占できる状況にあったのだ。
昼前になると、近くの会社で働くサラリーマンが来てくれたり、夜になると、年配の夫婦などが夕食にうちの店を選んでくれるようになった。
開業前に勇司が狙っていた通りの客層がきちんと来てくれている。決して売り上げが良いわけではないが、狙い通りに進んでいるという感覚がうれしかった。
このまま続けていけば、確実に黒字化することができる、勇司はそう確信していた。
「思った以上に順調ね」
妻も同じ気持ちのようで、うれしそうに勇司に話しかけてきた。
「ああ、このままいけば、従業員も雇えるようになるよ。そうなったら、皐月は家でゆっくりしてくれていいからな」
「ふふ、そうなるまでは頑張らないと」
皐月はそう言ったが、勇司はそのときは遠くないと考えていた。